周書卷九 列傳第一 皇后

北周諸帝の后妃十二人の列伝。文帝より静帝に至る歴代皇后の出自・冊立・末路を記す。太祖・高祖の代までは倹約な後宮運営が保たれたが、宣帝は多くの后妃を並立させ奢侈を極め、外戚楊氏の台頭を招いて周の祚を失う一因となったと総括する。

年表(6件)

総論

  • 文帝元皇后・文宣叱奴皇后・孝閔帝元皇后・明帝独孤皇后・武帝阿史那皇后・武帝李皇后・宣帝楊皇后・宣帝朱皇后・宣帝陳皇后・宣帝元皇后・宣帝尉遲皇后・静帝司馬皇后の各伝を収める。
  • 序として、婚姻の道と男女の別は国家の要事であり、三代より魏晋に至るまでその得失の跡は史書に詳しいとし、礼をもって迎え法度をもって防げば宮闈は正しく国運は永く保たれるが、邪僻が進み法度が乱れれば風化は衰え宗社も危うくなると説く。周氏は姫氏の制に則り内職に序があり、太祖は倹約を旨とし、高祖は矯枉のため情欲を節し宮闈は貫魚の序を保ち、外戚も私に溺れることがなかった君主の模範であったが、宣帝は溪壑のごとく満たされぬ欲望のまま身分を問わず後宮を集め、その乱れは夏の桀・殷の紂、漢の趙・李の寵にも比すべきほどであったとし、太祖以来の祚が忽ちに衰えたのはこれによるとして、皇后伝を編んだ由来を述べる。

文帝元皇后――魏の公主から周の后妃へ

  • 魏の孝武帝の妹。初め平原公主に封じられ開府張歓に嫁いだが、歓は貪残で后に無礼を働き侍婢を殺したため、后が孝武帝に訴えると帝は歓を捕らえて殺し、后を馮翊公主と改封して太祖(宇文泰)に配した。孝閔帝を生んだ。大統七年(541年)薨去。魏の恭帝三年(556年)十二月、成陵に合葬。孝閔帝の即位に伴い王后と追尊され、武成初(559年頃)に皇后と追尊された。

文宣叱奴皇后――高祖の生母

  • 代の人。太祖が丞相であった頃、姫として納れられ高祖を生んだ。天和元年(566年)六月、皇太后と尊ばれ、建徳二年(573年)三月癸酉に崩じ、四月丁巳、固陵に葬られた。

孝閔帝元皇后――廃立の悲運

  • 名は胡摩。魏文帝の第五女。初め晋安公主に封じられ、孝閔帝が略陽公であった頃に嫁いだ。孝閔帝の即位に伴い王后に立てられたが、帝が廃されると后は出家し尼となった。建徳初、高祖が晋国公宇文護を誅殺し孝閔帝を追尊した際、后も孝閔皇后と追尊され崇義宮に居した。隋の革命後は里第に居し、大業十二年(616年)に薨去した。

明帝独孤皇后

  • 太保衛国公独孤信の長女。明帝が藩に在った頃に夫人として納れられ、二年(559年)正月に王后に立てられたが、四月に崩じ昭陵に葬られた。武成初、皇后と追尊され、明帝(世宗)の崩後に合葬された。

武帝阿史那皇后――突厥との婚姻

  • 突厥の木杆可汗俟斤の娘。突厥は柔然を滅ぼした後、塞外の地を制圧し数十万の兵を擁して中夏を伺っていた。太祖は斉との対抗上この縁組を結ぼうとし、俟斤は当初娘を許したが後に翻意した。高祖の即位後、繰り返し使者を送り交渉を重ね、保定五年(565年)二月、陳国公純・宇文貴・竇毅・楊存らに皇后の儀物と行殿・六宮以下百二十人を備えさせ俟斤の牙帳に迎えに赴かせたが、俟斤が斉との婚姻も許すなど異心を見せたため純らは数年帰還できずにいた。折しも大雷風が起こり俟斤の穹廬を破壊したため、俟斤はこれを天譴と恐れ礼を備えて后と純らを送り帰した。天和三年(568年)三月、后が到着し高祖は自ら親迎の礼を行った。后は容姿・容止に優れ高祖に深く敬われた。宣帝即位後、皇太后と尊ばれ、大象元年(579年)二月に天元皇太后、二年二月に天元上皇太后と改められた(冊文の要旨:徳を含み万邦を治め、恩深く明徳あるを称え尊号を加えるとする)。宣帝崩後、静帝により太皇太后と尊ばれ、隋の開皇二年(582年)に三十二歳で薨去。隋文帝は詔して礼を備え孝陵に袝葬させた。

武帝李皇后

  • 名は娥姿。楚の人。于謹が江陵を平定した際、后の一族は捕虜となり長安に至った。太祖は后を高祖に賜い、後に寵愛を得た。大象元年(579年)二月に天元帝太后、七月に天皇太后、二年に天元聖皇太后と改められた(冊文略)。宣帝崩後、静帝により太帝太后と尊ばれたが、隋の開皇元年(581年)三月に出家し名を常悲と改め、八年(588年)に五十三歳で尼の礼により京城南に葬られた。

宣帝楊皇后

  • 名は麗華。隋文帝(楊堅)の長女。帝が東宮にあった頃、高祖により皇太子妃として納れられ、宣政元年(578年)閏六月に皇后に立てられた。帝が天元皇帝を自称すると天元皇后と称され、のち天皇后・左右皇后とともに四皇后の一とされた。二年、詔して四后を並べて太を加える尊号を与え、天元太皇后と冊立された(冊文略)。まもなく天中太皇后とされ五皇后の一となった。后は性柔和で嫉妬せず、他の皇后・嬪御にも敬愛された。しかし帝の乱行は次第に激しくなり、怒って后に罪を加えようとしたが、后は動じることなく応対したため帝は激怒し死を賜い自裁を迫った。后の母独孤氏が閤門に赴き頭を血が出るまで叩いて許しを乞い、辛くも免れた。帝崩後、静帝は后を皇太后とし弘聖宮に居させた。宣帝の危篤時、后の父楊堅が禁中に入り侍疾し、大漸に際し劉昉・鄭訳らが矯詔して楊堅に輔政させた。后は当初この謀に与らなかったが、幼帝の代に権力が他氏に移ることを恐れ、事後にこれを喜んだ。しかし父の簒奪の意図を知ると密かに不満を抱き、禅譲に至ってはさらに憤りを深めた。隋文帝は后を咎めることはできず内心恥じ、開皇六年(586年)に楽平公主に封じ、後に再婚を勧めたが后は固辞して止んだ。大業五年(609年)煬帝の張掖行幸に従い河西で薨去、時に四十九歳。煬帝は詔して定陵に袝葬させた。

宣帝朱皇后

  • 名は満月。呉の人。事に連座しその家は東宮に没入された。帝が太子であった頃、后は衣服係に選ばれ若くして寵愛を受け静帝を生んだ。大象元年(579年)に天元帝后、のち天皇后、二年に天大皇后と改められた(冊文略)。后はもとより良家の子ではなく年も帝より十余歳上で寵薄かったが、静帝の生母であることから特に尊崇され楊皇后に次ぐ地位を得た。宣帝崩後、静帝により帝太皇后と尊ばれ、隋の開皇元年(581年)に出家し名を法浄と改め、六年(586年)に四十歳で尼の礼により京城に葬られた。

宣帝陳皇后

  • 名は月儀。自ら潁川の人と称する。大将軍陳山提の第八女。大象元年(579年)六月に選ばれて入宮し徳妃を拝し、まもなく天左皇后に立てられ、二年二月に天左大皇后と改められた(冊文略、及び軒轅・虞舜の後宮制度に因む増置の詔)。天中大皇后が新たに置かれた際、后がこれに任じられた(冊文略)。帝崩後、后は出家し名を華光と改めた。父山提はもと高氏(斉)の隷属出身で斉に仕え特進開府東兗州刺史謝陽王に至り、高祖の平斉後は大将軍浙陽郡公に封じられた。大象元年、后の父として上柱国に進み鄅国公に封じられ大宗伯に任じられた。

宣帝元皇后

  • 名は楽尚。河南洛陽の人。開府元晟の第二女。十五歳で選ばれて入宮し貴妃を拝し、大象元年七月に天右皇后、二年二月に天右太皇后と改められた(冊文略)。帝崩後、后は出家し名を華勝と改めた。后は陳皇后と同時に選ばれて入宮し同日に妃・后位に冊立され、帝の寵遇は二后で等しく年齢も同じで親しかった。李・朱・尉遲の各皇后が相次いで没した後もこの二后は共に存命であった。父元晟は元氏宗室の出で開府を拝し、大象元年七月、后の父として上柱国に進み翼国公に封じられた。

宣帝尉遲皇后

  • 名は熾繁。蜀国公尉遲迥の孫女。容色に優れ、初め杞国公亮の子西陽公温に嫁いでいたが、宗婦として入朝した際に帝に犯された。亮の謀反発覚後、温は誅殺され、帝は后を宮中に召して長貴妃を拝させた。大象二年三月、天左太皇后に立てられた(冊文略)。帝崩後、后は出家し名を華首と改め、隋の開皇十五年(595年)に三十歳で薨去した。

静帝司馬皇后

  • 名は令姫。柱国滎陽公司馬消難の娘。大象元年二月に宣帝が帝に位を譲り、七月に帝の皇后として迎えられた(冊文略)。二年九月、隋文帝は后の父司馬消難が兵を擁して陳へ逃亡したことを理由に后を廃して庶人とした。後に隋の司州刺史李丹の妻となり、当時なお存命であった。

史論

  • 史臣は、孔子が「夷狄に君あるも諸夏の君なきに如かず」と述べたことを引き、周が狄の后を納れたことを富辰は禍の階と呼び、晋が戎女を娶ったことを卜人は不吉としたのはもっともであるとする。周の受命より高祖に至るまで四世を経て、平時であるにもかかわらず夷狄との婚姻を結び異民族の利を求めたが、当初の和親はやがて怨敵となり、高祖が制を受けながら政を親らせず謀臣・直臣も口を閉ざしたことを惜しんだ。また外戚が宰輔となった例は多いが、申・呂は代を超えて栄達せず、呂・霍は時とともに盛んになったように、漢室を傾けたのは王氏、周の祚を失わせたのは楊氏と、滅亡の禍が符節を合わせるように一致していることを指摘し、これが魏文帝が一概の詔(外戚を戒める詔)を発した所以であると結ぶ。