春秋左傳事類始末亡国三十二(自ら亡ぶ一・呉の滅ぼす二・斉の滅ぼす五・五諸侯共に滅ぼす二・蔡楚の滅ぼす十・魯衛狄莒)(亡國三十二)

『春秋』経文および左伝に記された諸侯国の滅亡事件を、魯莊公十年(前684年)の斉による譚の滅亡から魯定公十五年(前495年)の楚による胡の滅亡まで年代順に列挙する。楚・斉・晋・呉などの強国による周辺小国の併呑が続いた過程を示し、経文31年ぶんに左伝のみに見える16国ぶんの滅亡が補足として付される。史論はない。

年表(30件)
  • 原題の注記によれば、32件の内訳は、自壊(亡)1件、呉による滅亡2件、斉による滅亡5件(うち諸侯合同2件、蔡1件を含む)、楚による滅亡10件(魯・衛・狄・莒による滅亡を含む)、鄭による滅亡1件、晋による滅亡3件など。

魯莊公十年(前684年)

  • 斉が譚を滅ぼした。

魯莊公十三年(前681年)

  • 斉が遂を滅ぼした。

魯僖公五年(前655年)

  • 楚が弦を滅ぼした。

魯僖公十年(前650年)

  • 狄が温を滅ぼした。

魯僖公十二年(前648年)

  • 楚が黄を滅ぼした。

魯僖公十七年(前643年)

  • 項が滅ぼされた。

魯僖公十九年(前641年)

  • 梁が自滅した。

魯僖公二十五年(前635年)

  • 衛が邢を滅ぼした。

魯僖公二十六年(前634年)

  • 楚が夔を滅ぼした。

魯文公四年(前623年)

  • 楚が江を滅ぼした。

魯文公五年(前622年)

  • 楚が六を滅ぼした。

魯文公十六年(前611年)

  • 楚人・秦人・巴人が庸を滅ぼした。

魯宣公八年(前601年)

  • 楚が舒蓼を滅ぼした。

魯宣公十二年(前597年)

  • 楚が蕭を滅ぼした。

魯宣公十五年(前594年)

  • 晋が潞を滅ぼした。

魯宣公十六年(前593年)

  • 晋が赤狄の甲氏・留吁を滅ぼした。

魯成公十七年(前574年)

  • 楚が舒庸を滅ぼした。

魯襄公六年(前567年)

  • 莒が鄫を滅ぼした。同年十二月、斉が萊を滅ぼした。

魯襄公十年(前563年)

  • 諸侯連合が偪陽を滅ぼした。

魯襄公二十五年(前548年)

  • 楚が舒鳩を滅ぼした。

魯昭公四年(前538年)

  • 楚が賴を滅ぼした。

魯昭公八年(前534年)

  • 楚が陳を滅ぼした(13年後、陳は再び封じられた)。

魯昭公十一年(前531年)

  • 楚が蔡を滅ぼした(13年後、蔡は再び封じられた)。

魯昭公十三年(前529年)

  • 呉が州來を滅ぼした。

魯昭公十七年(前525年)

  • 晋が陸渾戎を滅ぼした。

魯昭公二十四年(前518年)

  • 呉が巣を滅ぼした。

魯昭公三十年(前512年)

  • 呉が徐を滅ぼした。

魯定公四年(前506年)

  • 蔡が沈を滅ぼした。

魯定公六年(前504年)

  • 鄭が許を滅ぼした(哀公元年、許の男爵が経文に再び現れ、許は復興した)。

魯定公十四年(前496年)

  • 楚が頓を滅ぼした。

魯定公十五年(前495年)

  • 楚が胡を滅ぼした。

左氏による補足(経文に見えない、または「入」「取」と記されたもの)

  • 左伝にはこの他にも滅亡の事実が16国分記されているが、経文には見えないか、「滅」ではなく「入」「取」と記されるにとどまる。莊公十四年の楚による息の滅亡、十六年の鄧、閔公元年の晋による耿・霍・魏の滅亡、閔公二年の狄による衛(経文には「入」と記載)、僖公五年の晋による虢・虞の滅亡(虞公は「執」と記載)、三十三年の秦による滑(「入」と記載)、文公五年の楚による蓼、宣公九年の根牟接収(「取」)、成公六年の鄟接収、襄公十三年の邿接収、昭公十二年の晋による肥、定公五年の楚による唐、哀公八年の宋による曹(「入」と記載)が挙げられる。