春秋左傳事類始末晋の荀瑶、鄭を伐つ(晉荀瑶伐鄭)
晋の知伯(荀瑶)が鄭を伐ち、斉の救援と陳成子の奮闘で一度は撤退するが、後に再び鄭を包囲し桔柣の門まで迫る。この際、知伯が趙孟(趙襄子)を侮辱したことが後の遺恨となり、知伯の貪欲と頑迷が韓・魏の離反を招いて、ついに知伯滅亡につながる伏線となる一件。魯哀公二十七年(前468年)・鄭悼公四年の経緯。
年表(2件)
- 魯哀公二十七年(前468年)知伯が鄭を伐つが、斉の陳成子の救援を受け撤退する
- 鄭悼公四年知伯が再び鄭を包囲し趙孟を侮辱、この遺恨が後の知伯滅亡につながる
魯哀公二十七年(前468年)
- 晋の荀瑶(知伯)が軍を率いて鄭を伐ち、桐丘に駐屯した。鄭の駟弘は斉に救援を求めた。斉の軍が動員されるにあたり、陳成子は戦没者の遺児たちを三日間朝廷に参列させ、車馬を用意して五つの邑を割り当てた。かつて隰の戦いで父を失った顔涿聚の子・晋を召し、「国難が続き、これまでお前を顧みることができなかった。今、君はお前にこの邑を授ける。正装して朝廷に出仕せよ、亡き父の功労を無駄にするな」と述べ、鄭の救援に向かった。
- 留舒に至り、榖の地を避けて七里ほど進んだが、榖の人々はこれに気づかなかった。濮水に至ると雨で渡れず、鄭の子思は「大国(斉)が我が国のすぐそばに来ているからこそ急を告げたのです。今、軍が進まなければ間に合わないでしょう」と訴えた。陳成子は喪服のような装いで戈を杖つき坂の上に立ち、進まぬ馬を自ら鞭打って助けた。知伯はこれを聞き、軍を引き上げた。
- 知伯は使者を通じて陳成子に「大夫陳氏はもと陳の出であろう。陳の祭祀が絶えたのは鄭の罪によるものだ、そこで我が君は私・瑶に陳への思いやりを確かめさせた。大夫は陳を気にかけないのか。もし陳の宗廟が覆ることを利とするなら、私には関わりのないことだが」と挑発した。陳成子は怒って「人を踏みにじってばかりの者は長続きしない、知伯は果たしてどこまで続くだろうか」と述べた。
鄭悼公四年
- 晋の荀瑶が軍を率いて鄭を包囲しようとしたが、まだ到着しないうちに鄭の駟弘は「知伯は頑固で勝つことに執着する、早めにへりくだれば無事に済むだろう」と述べ、先手を打って南里を固めて待ち構えた。知伯は南里に入り桔柣の門まで達した。
- 鄭人は酅魁壘を捕らえ、政務を任せることを条件に寝返りを持ちかけたが、魁壘は口を閉ざしたまま死んだ。知伯は趙孟(趙襄子)に城内へ攻め入るよう命じようとしたところ、趙孟は「主君はここにおられます」と応じた。知伯は「醜く勇気もない、それでどうして跡継ぎと言えるのか」と侮辱したが、趙孟は「恥を忍ぶことができれば、趙の家を損なうことはないでしょう」と答えた。
- 知伯はその後も態度を改めず、趙襄子はこれを深く恨みに思うようになり、ついに知伯を滅ぼすに至った。知伯は貪欲で頑固であったため、韓・魏もまた離反し、知伯を滅ぼすこととなった。