春秋左傳事類始末宋、昭公を立てる(宋立昭公)
子のない宋景公が没すると、権臣の大尹が国君の死を隠して公子啓を擁立しようとするが、司城・左師ら三族(皇氏・霊氏・楽氏)が国人に働きかけて対抗し、大尹は啓を奉じて楚へ亡命、公孫周の子・得(昭公)が立てられて三族共治の盟が結ばれるまでの宋景公二十六年(前469年)の顛末。
年表(1件)
- 宋景公二十六年(前469年)景公が没し大尹が啓の擁立を図るが、三族が対抗して得(昭公)を立てる
宋景公二十六年(前469年)
- 宋景公には子がなく、公孫周の子である得と啓を宮中で養っていたが、まだ後継者を定めていなかった。当時、皇緩が右師、皇非我が大司馬、皇懐が司徒、霊不緩が左師、楽茷が司城、楽朱鉏が大司寇を務め(六卿・三族)、政務は大尹を通じて行われていた。大尹はしばしば君に告げずに自分の思うところを君命と偽って国人に命令し、人々はこれを憎んだ。司城が大尹を除こうとすると、左師は「放っておけ、罪が重なり基盤を失えば、いずれ自滅するだろう」と述べた。
- 冬十月、景公は空沢に出遊し連中で没した。大尹は空沢の兵千人余りを動かし、公の遺骸を奉じて空桐から沃宮に入り、六卿を呼び寄せて兵で脅し、「君はご病気につき、皆で盟約を結んでほしい」と告げ、少寝の庭で「公室に不利益をなさない」との盟いを結ばせた。大尹は啓を立て、喪を大宮に安置した。
- 司城(楽茷)は国中に「大尹は君を惑わせて利益を独占し、今や君は病でもないのに死に、その死をひた隠しにしていた。これは他でもない大尹の罪である」と宣言させた。
- 得は夢を見た。啓が北を枕にして盧門の外に横たわり、すでに鳥と化してその上に群がり、嘴を南門に、尾を桐門に届かせているという夢であった。得はこれを「私の夢は吉兆だ、私が必ず君位に立つ」と語った。
- 大尹は「先の盟約に参加していない者がいる、追放されるのではないか、改めて盟わせよう」と考え、祝官に盟約の文書を作らせた。左師は国中に「大尹は君を惑わせ公室を虐げている、我に与する者は君を救う者だ」と触れさせると、人々は「大尹に味方しよう」と応じた。大尹側もまた「戴氏・皇氏は公室に不利益をなそうとしている、我に与する者は富に困ることはない」と触れたが、人々はこれに従わなかった。
- 大尹は啓を奉じて楚へ亡命した。こうして得が立てられ、司城が上卿となり、「三族(皇氏・霊氏・楽氏)が共に政を執り、互いに害さない」との盟いが結ばれた。