春秋左傳事類始末哀公、越に行く(哀公如越)

哀公が寵愛する公子荆の母を礼に反して夫人に立てたことで国人の信望を失い、越に赴いて太子適郢との縁組み話を季孫の賄賂で回避させ、帰国後は大夫たちとの不和が表面化する。ついに三桓の専横を除こうと越の力を頼み、邾を経て越へ出奔するまでの魯哀公二十四年(前471年)から二十七年(前468年)の経緯。

年表(3件)

魯哀公二十四年(前471年)

  • 公子荆の母が哀公の寵愛を受け、夫人に立てられようとした。哀公は宗人の釁夏にその礼を示すよう命じたが、釁夏は「そのような礼はございません」と答えた。哀公は怒り、「お前は宗司として夫人を立てる、国の大礼をなぜ知らぬと言うのか」と問い詰めた。釁夏は「周公と武公は薛から、孝公・恵公は宋(商)から、桓公以降は斉から夫人を娶っております、これが慣例の礼です。妾を夫人に立てるということについては、もとよりそのような礼はございません」と答えた。哀公は結局彼女を夫人に立て、荆を太子とした。これにより国人は公を嫌うようになった。
  • 閏月、哀公は越に赴き太子適郢に面会した。適郢は哀公を娶わせようとして多くの土地を与えようとしたため、季孫はこれを恐れ、大宰嚭を通じて賄賂を贈り、この話を取りやめさせた。

魯哀公二十五年(前470年)

  • 六月、公は越から帰国した。季康子・孟武伯が五梧で出迎えた。公の御者・郭重が二人に「悪口を多く言われていますぞ、君に洗いざらいお話しなさい」と告げた。公は五梧で宴を催し、武伯は郭重に祝辞を述べるふりをして「ずいぶん肥えたものだ」と皮肉った。公は「約束を違えることが多かったせいで肥えずにいられようか」と切り返した。酒宴は不快なうちに終わり、公と大夫たちの間に不和が生じ始めた。

魯哀公二十七年(前468年)

  • 公は三桓(季孫・叔孫・孟孫)の専横を憂い、諸侯の力を借りてこれを除こうとした。三桓もまた公の軽挙を警戒し、君臣の間に隙間が多くなった。公が陵阪に遊んだ際、孟氏の街で孟武伯に出会い、「お前に尋ねたいことがある、私は天寿を全うできるだろうか」と問うたが、武伯は「臣には知る由もございません」と答え、三度尋ねられても最後まで答えなかった。
  • 公は越の力を借りて魯を伐ち三桓を除こうと図った。秋八月、公は公孫有陘氏のもとへ赴き、そこから邾へ逃れ、さらに越へ向かった。魯の国人は公孫有山氏(先に食糧を分け与えた人物)に施しを与えた。