春秋左傳事類始末晋、斉を伐つ(晉伐齊)
晋の知伯(荀瑶)が占いを経ず斉を伐って犂丘で大勝し、翌年も晋侯が魯に出兵を求めて廩丘を取るが、莱章の諫言により晋軍は早期に撤退するまでの魯哀公二十三年(前472年)から二十四年(前471年)の経緯。
年表(2件)
- 魯哀公二十三年(前472年)知伯が占わず斉を伐ち、犂丘で斉軍を大破し顔庚を捕らえる
- 魯哀公二十四年(前471年)晋が魯の応援を得て斉を攻め廩丘を取るが、莱章の諫めで撤退する
魯哀公二十三年(前472年)
- 夏、晋の荀瑶(知伯)が斉を伐ち、高無㔻がこれを迎え撃った。開戦にあたり長武子が占いを求めると、知伯は「主君はすでに天子に告げ、宗廟の亀卜で吉と出ている、私が改めて何を占う必要があろうか。しかも斉は我が英丘を奪った。君命によって私が出陣するのは武を誇るためではなく、英丘を取り戻すためだ。罪を名指して討てばそれで十分、占う必要はない」と述べた。
- 壬辰の日、犂丘で戦い斉軍は大敗し、知伯自ら顔庚を捕虜にした。
魯哀公二十四年(前471年)
- 夏、晋侯が斉討伐に向かうにあたり、魯に使者を送って出兵を求め、「かつて臧文仲は楚の軍を借りて斉を伐ち榖の地を取り、宣叔は晋の軍を借りて斉を伐ち汶陽の地を取った。我が君は周公の余福にあやかりたく、臧氏の霊験を借りたいと願っている」と伝えた。臧石が軍を率いて合流し、廩丘を取った。
- 軍吏が装備を整えさらに進軍しようとしたところ、莱章は「主君の地位は低く政治は乱れている。昨年敵に勝ち今年もまた勝てば、都の民の負担はあまりに重くなる。それ以上進めるべきではない、これ以上の要求は虚言に等しい、この戦役はもう終えるべきだ」と述べ、晋軍は撤退した。晋は臧石に牛を贈り、「我が君は出征中で正式な饗礼を整えられないため、あえてこれをもって謝意を表す」と伝えた。