春秋左傳事類始末楚、白公の乱(楚白公之亂)
讒言で出奔した太子建の子・勝(白公)が呉から呼び戻され、鄭への復讐に固執した末、子西・子期を殺し恵王を脅迫して反乱を起こす。葉公(子高)が国人を率いて鎮圧し、白公は自害、石乞は口を割らず煮殺され、乱後は葉公が令尹・司馬を兼ねて国を鎮めるまでの魯哀公十六年(前479年)の経緯。
年表(1件)
- 魯哀公十六年(前479年)白公勝が子西・子期を殺し恵王を脅迫するが葉公に鎮圧され自害する
魯哀公十六年(前479年)
- 楚の太子建は讒言に遭い城父から宋へ奔り、さらに華氏の乱を避けて鄭へ移った。鄭は太子建を厚遇したが、太子建は晋にも赴いて晋人と鄭襲撃を謀った。その後鄭への復帰を願い出て、鄭は元通りに遇した。晋人が太子建(子木)に再び謀をもちかけ、出発の期日まで約したが、子木は自らの私邑で暴虐を働いたため邑人に訴えられ、鄭は晋との謀をこれによって知り、子木を殺した。
- 子木の子・勝は呉にあった。楚の子西がこれを召し戻そうとすると、葉公(子高)は「勝は偽り多く乱を好むと聞く、害にならないか」と懸念した。子西は「勝は信義があり勇敢だと聞く、害はなすまい。国境に住まわせ藩屏とすればよい」と答えた。葉公は「仁を広く行き渡らせることを信といい、義に従うことを勇という。勝は約束を実行することに固執し死士を求めていると聞く、私心があるのではないか。約束の実行に固執するのは信ではなく、死を期すのは勇ではない。あなたはきっと後悔する」と諫めたが聞き入れられず、勝は呉の国境近くに置かれ「白公」と呼ばれた。
- 白公は鄭討伐を求めたが、子西は「楚はまだ機が熟していない」として退けた。後日再び求められて許可したが、まだ出兵しないうちに晋が鄭を伐ち、楚がこれを救援することになった。白公は怒って「鄭の者がここにいる、仇は遠くない」と言い、自ら剣を研いだ。子期の子・平がこれを見て「王孫はなぜ自ら剣を研いでいるのか」と問うと、白公は「私は正直で知られている、お前に告げなければどうして正直と言えようか。お前の父を殺すつもりだ」と答えた。平がこれを子西に告げると、子西は「勝は卵のようなもの、私が羽で覆って育てたのだ。私が死ねば楚の令尹・司馬は勝でなくて誰が務めよう」と取り合わなかった。白公はこれを聞き「令尹の愚かさよ、死を招くのは私ではない」と述べ、子西は結局態度を改めなかった。
- 白公は石乞に「王と二人の卿士にはそれぞれ五百人の護衛がいる、これに対抗できねばならない」と語った。石乞は「そのような人数は集められません。ただ市場の南に熊宜僚という者がおり、彼一人で五百人に匹敵します」と答えた。白公は自らその者に会い、事情を説いて剣を突きつけたが、熊宜僚は動じなかった。白公は「利に諂わず、威に恐れず、人の秘密を漏らして媚びへつらわない者だ、放っておけ」と述べた。
- 呉が慎を伐つと白公はこれを撃退し、この功をもって戦の備えを献上したいと願い出て許可され、そのまま反乱を起こした。秋七月、白公は子西・子期を朝廷で殺し、恵王を脅迫した。子西は顔を覆って死に、子期は「かつて私は力をもって君に仕えた、最後まで貫かねばならない」と述べ、豫章の木を引き抜いて人を殺してから死んだ。
- 石乞は「武庫を焼き王を弑さねば事は成りません」と述べたが、白公は「いや、王を弑すのは不祥、武庫を焼けば蓄えを失う、それでは何を頼りに守るのか」と拒んだ。石乞は「楚国を保持しその民を治め、慎んで神に仕えれば吉祥は得られます、蓄えもすでにあります、何を心配することがありましょう」と言ったが、聞き入れられなかった。
- 葉公は蔡におり、方城の外の人々は皆「今こそ入城すべきです」と勧めたが、子高(葉公)は「険しさに頼って幸運を得ようとする者は求めに際限がないと聞く、力が偏れば必ず内部が離反する」と述べ、白公が斉の管修を殺したと聞いてからようやく入城した。
- 白公は子閭を王に立てようとしたが子閭は応じず、兵で脅迫した。子閭は「王孫よ、もしあなたが楚国を安定させ王室を正すというなら、その後にこそ身を寄せよう、それが私の願いだ、従わないわけがない。しかし利益を独占し王室を傾けようとするなら、楚国を顧みず、死んでも従うことはできない」と答え、白公はついに子閭を殺し、王を伴って高府へ向かった。
- 石乞は門を守り、圉公陽は宮に穴を開けて王を背負い、昭夫人の宮へ逃した。葉公も北門に到着した。ある者が葉公に「なぜ冑(かぶと)を着けないのですか、国人はあなたを慈しみ深い父母のように慕っています、賊の矢に当たって傷つけば民の望みを断つことになります、どうか冑を着けてください」と勧め、葉公は冑を着けて進んだ。また別の者に「なぜ冑を着けるのですか、国人はあなたを実りの年のように待ち望んでいます、あなたの顔を見ることさえできれば安心できるのです、民が死なずに済むと分かれば奮い立つでしょう、それなのに顔を隠して民の望みを絶つのはあまりにひどい」と言われ、葉公は冑を脱いで進んだ。
- 箴尹固は部下を率いて白公に加担しようとしていたが、子高は「あの二人(葉公と箴尹固)がいなければ楚は国家として立ちゆかない、徳を棄てて賊に従うのでは身を保てまい」と説いて葉公に従わせ、国人とともに白公を攻めた。白公は山中に逃げて縊死し、その手下はひそかに遺体を隠した。人々は石乞を生け捕りにして問い詰めると、石乞は「私はその隠し場所を知っているが、目上の者から口外するなと命じられている」と答え、「言わなければ煮殺すぞ」と脅されても「この企てが成功していれば卿になれたはず、失敗すれば煮殺されるのも当然のこと、何を恐れよう」と言い放ち、煮殺された。
- 沈諸梁(葉公)は令尹・司馬の両職を兼任して国を鎮め、国が落ち着くと寧(子国の孫)を令尹に、寛を司馬に任じ、自らは葉の地に隠退した。