春秋左傳事類始末鄭、宋を囲み晋を大敗させる(鄭救援を占う)(鄭圍宋取邑大敗晉卜救鄭)

鄭の寵臣・許瑕が封邑欲しさに宋の雍丘を包囲させたが宋に大敗し、晋の趙鞅は鄭を救援すべきか占いを重ねた末、卦が宋に不利と出ず結局救援を取りやめる。その代わり晋は翌年斉を攻めて戦果を挙げるまでの前486年から前485年の経緯。

年表(2件)

魯哀公九年(前486年)

  • 鄭の武子䞉の寵臣・許瑕が封邑を求めたが与える邑がなく、外征により得ようと請うたため、鄭は宋の雍丘を包囲した。宋の皇瑗が鄭軍を包囲すると、鄭軍は日々陣を移し塁を合わせたが、鄭の兵は泣き崩れ、子姚が救援に向かったものの大敗した。二月、宋は雍丘で鄭軍を破り、能力ある者は殺さず捕虜とし、郟張と鄭羅を連れ帰った。
  • 晋の趙鞅は鄭を救援すべきか占い、水が火に適う卦を得て、史趙・史墨・史龜に判断を求めた。史龜は「これは沈陽(陽気が沈む卦)といい、兵を興すのに用いてよいが、姜姓を伐つには利があり、子姓の商(宋)を伐つには利がない」と述べた。史墨は「盈は水の名であり(趙氏は水徳)、子は水の位である(宋は子姓)、名と位が対等では干渉できない。炎帝は火の神であり姜姓はその後裔、水は火に勝つゆえ姜姓を伐つのはよい」と述べた。史趙は「これは川が満ちる卦のようなもので、泳ぎ渡ることはできない。鄭にはもともと罪があり救うべきではない、救えば不吉である、それ以上は分からない」と述べた。
  • 陽虎が『周易』で占うと泰䷊(乾下坤上)の卦が需䷄(乾下坎上)の卦に変じた。陽虎は「宋の側が吉であり、味方すべきでない。微子啓は帝乙の長子であり、宋と鄭は甥舅の関係にある(宋は殷の後裔で、今なお帝乙の封を受けている、それゆえ宋が吉であるとわかる。帝乙は紂王の父である)。この卦は幸いを表す。もし帝乙の長子が嫁ぐ卦であれば吉福があるということになり、我々が吉を得られるはずがない」と述べた。これにより鄭救援は取りやめとなった。

魯哀公十年(前485年)

  • 夏、趙鞅は軍を率いて斉を伐とうとし、大夫たちが占いを求めた。趙孟(趙鞅)は「私はこの一件についてはすでに占った、事は二度命じない、占いも吉が重なるまで繰り返すものではない」と述べ、そのまま出兵した。この戦いで犂と轅を取り、高唐の外郭を壊し、頼にまで侵攻して引き返した。