春秋左傳事類始末斉の陽生、荼を弑す(齊陽生弑荼)

斉の景公が寵愛する庶子荼を太子に立てて没した後、陳乞が高氏・国氏を排除して公子陽生(悼公)を擁立し、幼い荼と鮑牧を除いていく斉の権力交代劇を記す一篇。

年表(3件)

魯哀公五年(前490年)

  • 斉の燕姫が産んだ子は成人前に死んだ。庶子のうち鬻姒の子・荼が寵愛されており、大夫たちはこの荼が太子になることを恐れ、景公に「君はすでに高齢なのに太子が定まっていない、どうなさるおつもりか」と進言した。公は「諸君は憂いにかまけて心労で病になるものだ、しばらくは楽しみを図ればよい、君主がいないことを何を憂うことがあろう」と答えた。
  • 公は病になると国惠子・高昭子に荼を立てさせ、他の公子たちは萊に追いやった。秋、斉の景公が没した。冬十月、公子嘉・公子駒・公子黔は衛へ、公子鉏・公子陽生は魯へ亡命した。萊の人々は「景公が死んだというのに、三軍の埋葬にも軍の謀にも与らないとは、いったいどちらに味方すればよいのか」と歌って揶揄した。

魯哀公六年(前489年)

  • 斉の陳乞は高氏・国氏に仕えるふりをして、朝見のたびに車に同乗し、行く先々で高・国が驕り高ぶり大夫たちを圧迫するだろうと吹き込み、大夫たちに早く除くよう勧める一方、高・国の二人には大夫たちが謀反を企てていると告げて双方を煽り、事が起こる前に先手を打つよう説いた。大夫たちはこれに従った。
  • 夏六月、陳乞・鮑牧と大夫たちは武装して公宮に入った。高昭子はこれを聞き国恵子と公のもとへ向かい、荘で戦ったが敗れた。国夏は莒へ、続いて高張・晏圉・弦施も魯へ亡命した。
  • 八月、陳僖子(陳乞)は公子陽生を密かに斉へ呼び寄せ、子士の母に養わせて入城させた。冬十月丁卯、陽生(悼公)を立てようとしたところ、酔って現れた鮑牧が「誰の命令か」と咎め、陳乞が「鮑子の命令だ」と偽って責任を押し付けたため、鮑牧は怒った。悼公は「あなたが義に従って判断してよい、いけなければ公子の誰かが命を落とすまでのこと」と頭を下げ、鮑牧は「誰であれ君の子には変わりない」と盟いを受け入れた。
  • 胡姫に安孺子(荼)を連れて頼へ移らせ、荼の母・鬻姒を退けた。悼公は陳乞に感謝を伝えつつ二君並立の危うさを説き、大夫たちへの相談を求めた。陳僖子は涙ながらに、国難のため幼君に相談できず年長の君を求めたのだと弁明した。結局、幼子(荼)は殺されず野の幕舎に留め置かれるにとどまった。

魯哀公八年(前487年)

  • ある者が胡姫を悼公に讒言し「安孺子(荼)の一派だ」と告げた。六月、悼公は胡姫を殺した。
  • 鮑牧が公子たちに千乗の馬を与えようと持ちかけたことを、ある公子が悼公に訴えた。悼公は鮑牧に「讒言があるので、しばらく潞に住んで様子を見よ」と告げ、当初は家財の一部を持たせて出発させたが、道半ばで供の車を減らし、潞に至ると縛り上げて連行し、ついに殺害した。