春秋左傳事類始末桓公・僖公の廟、火災に遭う(桓僖災)

司鐸の火災が公宮に及び桓公・僖公の廟が焼けた際、南宮敬叔ら官人たちが迅速に対応し延焼を防いだ次第を記す一篇。

年表(1件)

魯哀公三年(前492年)

  • 夏五月、司鐸で火災が起こり、火は公宮にまで及んで桓公・僖公の廟が焼けた。
  • 南宮敬叔が駆けつけ、記録官に文書を持ち出させ、宮の前で「担当の物を揃えよ、揃わなければ死罪だ」と命じた。子服景伯は宰人に礼書を持ち出させて命令を待たせ、「命に従わない者には定めの刑罰がある」とした。校人は馬を用意し、巾車は車軸に油を塗り、百官はそれぞれの職務を整え、府庫は厳重に守らせ、官人は迅速に対応し、水に濡らした帷幕を火にかぶせて防いだ。公の屋を苫で覆う作業は犬廟から始め、内外の職務を整え直し、手の足りない所は助け合い、命に従わない者は定めの刑罰に処するとした。
  • 公父文伯は校人に乗車の準備を命じ、季桓子は公の車を御した。哀公は象魏(法令を掲示する門)の外に立ち、これを蔵うよう命じて「旧来の法令を失ってはならない」と言った。富父槐は「備えのないまま官が事を処理するのは、こぼれた汁を拾い集めるようなものだ」と言い、標識の粗末な物を取り除いて公宮に戻った。
  • 孔子は陳にあってこの火災を聞き、「それは桓公・僖公の廟であろう」と言った。