春秋左傳事類始末魯、陽虎の乱(魯陽虎之亂)

魯の家臣陽虎が季平子の死をきっかけに季桓子らを幽閉して権力を握り、三桓の排除を企てて蒲圃で季氏を討とうとするも公斂處父らに敗れ、斉・宋を経て晋の趙氏に亡命するまでの魯定公五年から九年に至る内乱の顛末。

年表(5件)

魯定公五年(前505年)

  • 季平子が東野への視察から戻る途中に房で没した。陽虎は璵璠の玉で殮めようとしたが、仲梁懷が拒んだ(「歩みを改めれば玉も改める」の理による)。陽虎は仲梁懷を追放しようとして公山不狃に告げたが、不狃は「彼は主君に仕えているだけだ、何を恨むことがあろう」と諭した。
  • 埋葬後、季桓子が東野へ赴いた際、費の宰である子洩が郊外で出迎えた。桓子は子洩を敬い、仲梁懷を敬わなかったので、仲梁懷は怒り、子洩は陽虎にことを起こすよう促した。
  • 九月、陽虎は季桓子と公父文伯を幽閉し、仲梁懷を追放した。冬十月には公何藐を殺し、稷門の内で桓子に盟約を結ばせ、庚寅の日に大々的に誓約させた。公父歜と秦遄は追放され斉へ亡命した。

魯定公六年(前504年)

  • 二月、定公は鄭を攻めたが、その道中で衛に対し通行の許可を求めなかった。帰途、陽虎は季孫・孟孫の一行を衛の南門から入らせ東門から出させ、豚澤に宿営させた。衛侯は怒り彌子瑕に追撃させようとしたが、老臣の公叔文子が輦に乗って諫め、「昔の昭公の危難の際の旧誼を、小さな怒りのために忘れてはならない」と説いたため、追撃は中止された。
  • 夏、季桓子が晋に赴いた際、陽虎は孟懿子にも同行を強いた。晋人は二人を共に饗応した。孟孫は范献子に、もし陽虎が晋の中軍司馬になるようなことがあれば先君に誓って認めないと述べた。献子は任命は主君の権限だと答えたが、後に趙簡子には、魯人が陽虎を憂いており、孟孫があえて陽虎を晋に推したのは彼を魯から遠ざけるための策であろうと語った。

魯定公七年(前503年)

  • 斉が鄆と陽関の地を魯に返還した。陽虎はここを拠点として政をほしいままにした。

魯定公八年(前502年)

  • 季寤・公鉏極・公山不狃は季氏の中で不遇であり、叔孫輒は叔孫氏に寵愛されず、叔仲志も魯の朝廷で不遇であった。この五人は陽虎に与した。陽虎は三桓を排除しようと企て、季氏を季寤に、叔孫氏を叔孫輒に代えようとし、孟氏についてはすでに手を打っていた。
  • 冬十月、先公の順祀を行い、辛卯には僖公の禘祭を行った。壬辰、蒲圃で季氏を饗応して殺そうと企て、癸巳に成へ向かう車の用意を命じた。成の宰である公斂處父はこの車の動員を怪しみ孟孫に告げたが、孟孫は「聞いていない」と答えたため、處父は「それなら乱だ、備えよ」と警告し、壬辰を期して合流することにした。
  • 陽虎は林楚に桓子の車を御させて先導し、虞人を武装させて左右を固め、陽越を後備とし蒲圃へ向かった。桓子は林楚に、代々季氏に忠義を尽くしてきた一族であることを説いて助けを求め、孟氏の元へ向かうよう促した。孟氏は屈強な馬丁を選んで門外を固めていた。林楚は馬を疾駆させ辻に至り、陽越が矢を放ったが外れ、孟氏方は門を閉ざした。
  • 陽虎は定公と叔孫武叔を捕らえて孟氏を攻めたが、公斂處父が成の兵を率いて南門内で応戦し、一度は敗れたものの棘下で再戦して陽氏を打ち破った。陽虎は甲を脱ぎ捨てて公宮に入り、宝玉と大弓を奪って逃れ、五父の衢に宿営した。公斂陽は追撃を願い出たが孟孫は許さなかった。陽虎は桓子を殺そうとしたが孟孫がこれを恐れて桓子を返させた。陽虎は讙・陽関に入って叛いた。

魯定公九年(前501年)

  • 夏、陽虎は奪った宝玉と大弓を返還した。六月、魯は陽関を攻めた。陽虎は萊門を焼かせたが守備側に不意を突かれて敗れ、斉へ亡命し、魯攻撃のための援軍を求めた。「三度攻めれば必ず取れる」と説いたので斉侯は許そうとした。
  • 鮑文子は「かつて施氏に仕えていたので魯の内情を知っている。上下はなお和し民も睦まじく、大国によく仕え天災もない魯を、取ることはできない。陽虎はただ斉の軍を疲弊させたいだけであり、斉軍が疲れれば大臣が多く死ぬことになる。陽虎は季氏に寵を受けながらこれを殺そうとした男で、富には親しんでも仁には親しまない。斉は季氏よりも富み魯よりも大きい、これこそ陽虎が覆そうとしているものだ。魯が免れた災いを斉が引き受けることになれば、斉の害になるのではないか」と諫めた。
  • 斉侯は陽虎を捕らえ東へ送ろうとしたが、陽虎がそれを望んでいると知り、逆に西の辺境に幽閉した。陽虎は葱靈(覆いのある車)に乗って脱走したが捕らえられ再び斉に幽閉された。さらに葱靈で脱走して宋へ逃れ、ついに晋に亡命して趙氏のもとに身を寄せた。仲尼は「趙氏はきっと世々乱に見舞われるだろう」と評した。