春秋左傳事類始末晋の范・中行の乱(晉范中行之亂)
晋の趙鞅・荀寅が刑鼎を鋳造したことへの仲尼の批判に始まり、趙鞅と邯鄲午の対立から范氏・中行氏の乱が起こって晋国が二分される。趙鞅方が勝利して両氏を朝歌・邯鄲・柏人へと追い詰め、鉄の戦いなどを経て乱が鎮まるまでの16年間。
年表(8件)
- 魯昭公二十九年(前513年)趙鞅・荀寅が刑鼎を鋳造し、仲尼と史墨がその滅亡を予言
- 魯定公十三年(前497年)趙鞅が邯鄲午を殺し、范氏・中行氏が趙氏を攻めて晋陽に奔らせる
- 魯定公十四年(前496年)董安于が自死し趙氏の地位が定まる、荀寅・范吉射は朝歌に敗走
- 魯哀公元年(前494年)斉侯・衛侯が邯鄲を救援する
- 魯哀公二年(前493年)鉄の戦いで趙鞅・衛太子が鄭・范氏方の軍を破る
- 魯哀公三年(前492年)趙鞅が周の萇弘を討たせ、朝歌を包囲、荀寅が邯鄲に奔る
- 魯哀公四年(前491年)邯鄲が降伏し、荀寅は鮮虞を経て柏人に入る
- 魯哀公五年(前490年)晋が柏人を包囲し、荀寅・士吉射は斉へ奔り乱が終息
魯昭公二十九年(前513年)
- 晋の趙鞅・荀寅が汝浜に城を築き、その費用として晋国から鉄一鼓を徴発して刑鼎を鋳造し、范宣子の定めた刑法を刻んだ。
史論(仲尼曰)
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仲尼は「晋はこれで滅びに向かうだろう、法度を失った、晋は唐叔以来の法度により民を秩序づけ、卿大夫が身分に応じてこれを守り、貴賤の序があってこそ国は成り立ってきた、文公はそのために執秩の官を設け被廬の法を作り盟主となった、それを棄てて刑鼎を鋳れば民は鼎の文言に頼るようになり、貴賤の序は保てず何を以て国とするのか、しかも范宣子の刑法は夷の蒐の際に定めた晋国の乱れた制度であり、それを法とするなど誤りだ」と述べた。
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蔡の史墨は「范氏・中行氏はまもなく滅びるだろう、中行寅は下卿でありながら上位の命令に干渉し、勝手に刑器を作って国法としたのは姦を法とするに等しい、しかもそれに范氏が加担している、その乱れはやがて趙氏にも及ぶだろう、趙孟(趙鞅)も関わってはいるが、徳があれば免れられるかもしれない」と予言した。
魯定公十三年(前497年)
- 趙鞅が邯鄲午に「衛から貢納された五百家を晋陽に移したい」と求めた。午が父兄に相談すると、父兄は「衛が邯鄲を頼みとしているのにこれを晋陽に移せば衛との道が絶える、むしろ斉を侵して事を図るべきだ」と答え、午はその通りにして五百家を晋陽に帰した。趙孟は怒って午を晋陽に召し囚え、「私が午を討つのは私事だ、邯鄲の者は好きな者を立てよ」と告げて午を殺した。趙稷・渉賓は邯鄲を拠点に叛いた。
- 夏六月、籍秦が邯鄲を包囲した。邯鄲午は荀寅の甥、荀寅は范吉射の姻戚で互いに親しかったため、荀寅・范吉射は邯鄲を援けず、逆に乱を起こそうとした。董安于がこれを聞いて趙孟に先手を打つよう勧めたが、趙孟は「晋国の法では乱を起こした者が死罪となる、後手でよい」と答えた。秋七月、范氏・中行氏が趙氏の邸を攻め、趙鞅は晋陽に奔り、晋人はこれを包囲した。
- 范皋夷は范吉射に寵愛されず范氏で乱を企て、梁嬰父は知文子に寵愛され文子は彼を卿にしたいと考えていた。韓簡子は中行文子と、魏襄子は范昭子と不仲であったため、五人は謀って荀寅を逐い梁嬰父に代え、范吉射を逐い范皋夷に代えようとした。荀躒は晋侯に「君命では乱の首謀者は死罪、しかし趙鞅だけを逐うのでは刑が不公平だ、皆逐うべきだ」と進言した。
- 冬、荀躒・韓不信・魏曼多が公を奉じて范氏・中行氏を討ったが勝てず、二子(荀寅・范吉射)はかえって公を攻めようとした。斉の高彊は「三度腕を折ってこそ良医になれるというが、君を攻めるのだけは不可だ」と諫めたが聞かれず、二子は公を攻めた。国人が公を助けてこれを敗り、丁未、荀寅・士吉射(范吉射)は朝歌に奔った。韓氏・魏氏は趙氏の赦免を求め、十二月辛未、趙鞅は絳に入り公宮で盟った。
魯定公十四年(前496年)
- 梁嬰父は董安于を憎み、知文子に「安于を殺さねば趙氏で終身政を執ることになる、趙氏はいずれ晋国を得るだろう、彼が先に乱を発した咎で趙氏を討つべきだ」と勧めた。知文子は趙孟に「范氏・中行氏が乱を起こしたのは事実だが、安于が先に事を起こしたのも共謀に等しい」と告げさせた。趙孟が思い悩むと、安于は「私が死ねば晋国が安んじ趙氏も定まる、それならば生きている必要はない」と言って首を吊って死んだ。趙孟はその屍を市に晒して知氏に告げ、知伯は趙孟と盟った後、趙氏の地位は定まり、安于を廟に祀った。
- 夏、晋人は朝歌を包囲した。公は斉侯・衛侯と脾上梁の間で会した。秋、斉侯・宋侯は洮で会した(范氏のためである)。冬十二月、晋人は范氏・中行氏の軍を潞で破り籍秦・高彊を捕らえ、さらに鄭の軍と范氏の軍を百泉で破った。
魯哀公元年(前494年)
- 夏、斉侯・衛侯が邯鄲を救援した。
魯哀公二年(前493年)
- 六月、晋の趙鞅は衛の太子(蒯聵)を戚に入れた。秋、斉人が范氏に食糧を輸送し、鄭の子姚・子般がこれを護送、士吉射(范吉射)がこれを迎えに出ると、趙鞅はこれを阻もうと戚で対峙した。簡子(趙鞅)は「范氏・中行氏は天命に背き百姓を虐げ晋国を私しようとし君を滅ぼそうとした、寡君は鄭を頼みとしていたが鄭は不義にも君を棄て臣を助けている、諸君は天命に従い君命に従え、功のある者には県や郡を与え士には田十万を与え庶人・工商・臣隷にも及ぼす」と誓った。
- 開戦に際し、簡子の御者・郵無恤が車を駆り衛太子が車右となったが、鄭軍の多さを見て太子は怖じ気づき車から落ちかけ、子良が手綱を授けて助け起こし「女々しいぞ」と叱った。簡子も「畢万は匹夫であったが七戦して功をあげ馬百乗を得た、諸君励め、死は戦場に限らない」と諸卒を励ました。衛太子は祖先の霊に「鄭が乱を起こし主君(衛霊公の子蒯聵)は難にあり治められず趙鞅にこれを討たせている、自ら怠らず武具を持って戦う、筋を絶やさず骨を折らず面に傷をつけず大事を成し遂げ祖先を辱めぬよう」と祈った。
- 戦闘で鄭人が簡子の肩を撃ち簡子は車中に倒れたが蜂旗を得、太子は戈で簡子を救い鄭軍を退け、鄭軍は大敗し斉の粟千車を得た。趙孟は喜んだが、傅傁は「鄭に勝っても知氏の憂いはまだ消えていない」と釘を刺した。
- なお、以前周人が范氏に献じた田を、公孫尨が税を取り立てていたところ趙氏がこれを捕らえ、役人が処刑しようとしたが趙孟は「主人(范氏)のために働いただけだ、何の罪もない」と許し田を与えた。この戦い(鉄の戦い)で公孫尨は夜、五百人を率いて鄭軍を襲い子姚の陣幕から蜂旗を奪い「主君の恩に報いたい」と献じた。戦後、簡子・太子・御者の郵良はそれぞれ自らの功を語り合った。
魯哀公三年(前492年)
- 劉氏と范氏は代々婚姻を結んでおり、萇弘は劉文公に仕えていたため周は范氏を助けていた。趙鞅はこれを討伐の口実とし、六月、周人は萇弘を殺した。冬十月、趙鞅は朝歌を包囲し、荀寅は軍を率いて城を出て、癸丑、邯鄲に奔った。
魯哀公四年(前491年)
- 秋、斉の陳乞・弦施、衛の甯跪が范氏を救援した。九月、趙鞅は邯鄲を包囲し、冬十一月、邯鄲は降伏、荀寅は鮮虞に、趙稷は臨に奔った。十二月、弦施がこれを迎え、国夏が晋を伐ち鮮虞と会して荀寅を柏人に入れた。
魯哀公五年(前490年)
- 春、晋は柏人を包囲し、荀寅・士吉射は斉に奔った。以前、范氏の家臣・王生は張柳朔を憎んでいたが、昭子(范氏当主)に彼を柏人の大夫に推挙し、「私怨と公の善用は別、私怨のために善人を用いないのは義に反する」と述べた。范氏が出奔する際、張柳朔は子に「お前は主君に従い励め、私はここに留まって死ぬ、王生の恩に報いる、僭ることはできない」と言い残し、柏人で戦死した。