春秋左傳事類始末季氏、昭公を逐う(季氏逐昭公)

季平子と昭公の対立が闘鶏の争いなどを機に激化し、昭公が季氏討伐に失敗して斉へ出奔、以後諸国を頼りながら国に戻れぬまま乾侯で没するまでの8年間。子家羈の諫言や史墨の陪貳論を交え、定公の即位に至る顛末を描く。

年表(8件)

魯昭公二十五年(前517年)

  • 冒頭は昭公十一年に遡る挿話。斉帰(昭公の母)の葬送から帰った晋の使者が史趙に語り、史趙は「魯の郊祭は絶えるだろう、帰姓(親を思わぬ意)だからだ」と言った。叔向はこれを聞き「魯公室は卑しくなるだろう、大喪があっても国が廃朝せず、三年の喪があるのに一日の哀しみもない、国は喪を恤まず君も親を顧みない、これでは魯君はやがて国を失うだろう」と述べた。
  • 夏六月甲戌朔、日食があった。祝史が幣を用いるべきか問うと、昭子(叔孫婼)は「日食には天子は鼓を伐たず社に幣を用いる、諸侯は社に幣のみ、鼓は伐たない」と述べたが、平子(季孫意如)はこれを退け「正月朔で悪気が生じていない場合を除き、鼓と幣を用いるのが礼だ」と反論した。太史も夏の暦法を引いて「日はまだ夏至に至っていない」と説明し、昭子は「季孫はやがて君を君として遇さなくなるだろう」と退いた。
  • 春、叔孫婼が宋に聘問し、宋公との宴で互いに涙を流す場面があった。楽祁はこれを見て「今年、宋公と叔孫はともに死ぬだろう、哀しむべき時に楽しみ楽しむべき時に哀しむのは心を喪ったしるしだ」と予言した。また季公若の姉が生んだ娘が季平子の妻となっていたが、宋の元夫人(曹氏)の讒言により離縁されかけ、楽祁は「季氏を離せば魯君は必ず出奔することになる、政は既に季氏に三代も委ねられ、民は季氏に懐いている」と警告した。
  • 夏、鸜鵒(八哥鳥)が魯に巣を作った。師已は文武の代からの童謡を引き、これは君主が国を出て辱めを受ける前兆だと述べた。
  • 季公鳥の死後、家中の内紛(季公亥・公思展・申夜姑と季姒の密通疑惑、秦遄の妻への讒訴)が起こり、平子は展を捕らえ夜姑を殺そうとした。これにより公若は平子を恨んだ。また季郈両家の闘鶏の争い(季氏が鶏に鎧を着せ、郈氏は金属の距をつけた)から双方が怨みを抱き、臧氏も平子に一族を拘束されたことを恨んだ。
  • 公若・公為・公果らは昭公に季氏討伐を勧め、臧孫・郈孫らも同調した。子家羈(懿伯)は「讒言者を恃んで事を起こしても成功の保証はない、政はすでに季氏にある、図りがたい」と諫めたが聞き入れられなかった。九月戊戌、昭公は季氏を攻め、平子は登台して罪を待つと願い出たが許されず、子家羈は「衆怒は蓄えれば必ず生じる、季孫を許すべきだ」と説いたが郈孫は殺害を主張した。叔孫氏の家臣鬷戾が「季氏なくば叔孫氏もない」と諸家臣を説き、叔孫の兵が昭公方を破り、孟氏も郈昭伯を殺して昭公方を攻めた。
  • 子家羈は昭公に和解を勧めたが昭公は聞かず、己亥、昭公は斉に出奔した。斉侯は昭公を迎え千社を与えると申し出たが、子家羈は「魯があれば十分、千社を臣として受けては立つ瀬がない、斉侯も信じがたい、晋に行くべきだ」と諫めた。臧昭伯らが盟約を結ぼうとした際、子家羈は「君を難に陥れて内外を通じさせる者こそ罪が重い」と述べて盟に加わらなかった。
  • 昭子(叔孫婼)は闕から帰り、平子は稽顙して謝罪を願った。昭子は昭公に従って斉に赴いたが、昭公方が昭子を殺そうとする動きがあり、昭公は昭子を鑄邑に帰らせた。平子に異心ありとされ、冬十月辛酉、昭子は寝所で斎戒し祝宗に死を祈り、戊辰に卒した。
  • 十一月、宋元公が昭公のために晋に赴こうとしたが、道中で不吉な夢(大子欒が廟に即位する夢)を見、群臣に「霊のご加護で天寿を全うできるなら質素な葬儀でよい」と語り、仲幾の応答の後、曲棘で卒した。

魯昭公二十六年(前516年)

  • 春、斉侯は鄆を取った。三月、昭公は斉より鄆に至り滞在した。夏、斉侯は昭公を魯に納れようとしたが、季氏側の申豊・女賈が斉の重臣高齮に賄賂を贈り、高齮は斉侯に「宋元公・叔孫昭子はともに昭公を納れようとして急死した、天が魯を棄てたのか昭公に罪があるのか分からない、曲棘で様子を見てから師を出すべきだ」と進言させ、斉侯はこれに従った。
  • 斉の公子鉏が師を率いて昭公に従い、成の大夫公孫朝は平子に「成邑を斉に委ねて国を守りたい」と申し出て、斉に降ることを告げた。斉軍は成を包囲したが、成人の計略により斉軍は撤退した。

魯昭公二十七年(前515年)

  • 秋、諸侯が扈に会し昭公を魯に納れることを謀った。宋・衛は納公に利があるとしてこれを推したが、晋の范献子(士鞅)は季孫から賄賂を受けており、司城子梁・北宮貞子に「季孫は罪を認めておらず、討てば囚われか出奔を求めるはず、それもせず自ら出たままだ、備えなくして君を国に留めておけるわけがない、昭公が斉に三年いても事は成らず、季氏はかえって民心を得ている、納公は難事だ」と説き、諸侯は昭公を納れることを断念した。
  • 孟懿子と陽虎が鄆を攻めた。鄆人が戦おうとすると、子家羈は「天命はまだ定まっていない、天が禍しつつ自ら福を与えるとは考え難い、鬼神がいる限りこの戦は必ず敗れる、私はこの地で死ぬだろう」と述べた。昭公は子家羈を晋に遣わしたが、昭公方の兵は且知で敗れた。冬、昭公は斉に赴き、斉侯が饗応しようとしたが、子家羈は「朝夕斉の朝廷に立つ身でどうして饗応を受けられようか」と辞退し、簡略な酒宴とした。

魯昭公二十八年(前514年)

  • 春、昭公は晋に赴こうとし乾侯に向かった。子家羈は「人に求めながらその安逸をむさぼれば、誰が哀れんでくれようか」と諫めたが聞かれず、国境で晋への取次を求めさせた。晋人は「天は魯国に禍し、君は国外に留まっている、それでも一人の使者すら寡君の許に寄越さず、甥舅の誼に安んじようとするのか」と答え、改めて昭公を出迎えさせた。

魯昭公二十九年(前513年)

  • 春、昭公は乾侯から鄆に戻った。斉侯は高張を遣わして昭公を弔問させ「主君」と呼んだ。子家羈は「斉は君を卑しめている、行けば辱められるだけだ」と述べた。昭公は乾侯に赴いた。季平子は毎年馬や従者の衣履を調え乾侯に届けていたが、昭公が使者を捕らえて馬を売ったため、以後届けられなくなった。衛侯が乗馬を献じたが、その馬が溝で死んだため、昭公が棺を作ろうとすると、子家羈は「従者たちも困窮している、その肉を食させるべきだ」と諫め、幃で包むにとどめた。

魯昭公三十一年(前511年)

  • 春、昭公は乾侯にあり、晋侯は師を率いて昭公を魯に納れようとした。范献子は「季孫を召しても来なければ不臣として討てばよい」と述べ、晋人は季孫を召した。季孫(意如)は晋の荀躒に会い、練冠麻衣で跣足のまま伏して「君に仕えるべき臣が刑を逃れることはできない、罪ありとされれば費邑で君の裁きを待つ、先臣の功により死を賜らずとも、それは君の恵みである」と答えた。
  • 夏四月、季孫は知伯(荀躒)に従って乾侯に赴いた。子家羈は昭公に「季孫と共に帰らねば、一時の恥を忍ばず終身の恥となるぞ」と勧めたが、従者たちが昭公を脅して帰国を阻んだ。荀躒は晋侯の命として昭公を弔い、季孫の罪を問うと伝えたが、昭公は「先君のよしみを施し、亡命の身を帰国させ宗廟を掃除させてくれるなら、夫人(季孫の妻)にはもう会わない」と誓ったが、荀躒は「これ以上魯国の内紛には関われない」と耳を塞いで去った。

魯昭公三十二年(前510年)

  • 十二月、昭公は病み、大夫たちに広く物を賜ったが大夫は受け取らなかった。子家羈だけは軽い品を受け、他の大夫は皆断った。己未、昭公は薨じ、子家羈は賜り物を府に返した。
  • 晋の趙簡子が史墨に「季氏が君を国外に追い出したのに、民は服し諸侯もこれを認め、君は国外で死んでも誰もこれを罪としない、なぜか」と問うた。史墨は「万物には両・三・五・陪貳があり、天に三辰、地に五行、体に左右、王に公、諸侯に卿があるように、天は久しく季氏を魯侯の陪貳としてきた。民が季氏に服するのも当然だ。魯君は代々失政を重ね、季氏は代々勤めを積んできた、民はすでに君を忘れている。魯君が国外で死んでも誰が哀れもうか。社稷に定まった祭主はなく、君臣に定まった位はない、古よりそうであった」と答え、易の大壮の卦(乾下震上)を引いて説明した。さらに成季友(季氏の祖)以来の功績を語り、季氏が国政を四代にわたり担ってきた経緯を述べ、「君たる者は名器を慎み、みだりに人に貸してはならない」と結んだ。

魯定公元年(前509年)

  • 夏、叔孫成子(叔孫不敢)が乾侯で昭公の喪を出迎えた。季孫は「子家羈の言はいつも私の意にかなっていた、共に政を執りたい」と叔孫に伝えさせたが、子家羈は喪中を理由に会わず、叔孫が重ねて頼んでも、「私は君の命なくして国を出、君は薨じた、会う資格はない」と固辞した。使者が公子宋を君主に立てる案を伝えると、子家羈は「立君は卿士・大夫・卜筮の定めるところ、私の知るところではない、私は逃れるつもりだ」と答えた。
  • 喪列が壊隤に至ったとき、公子宋が先に入り、従者たちも壊隤から引き返した。六月癸亥、昭公の喪が乾侯より到着し、戊辰、定公(公子宋)が即位した。季孫は闕にある昭公の旧宅に溝を掘らせようとしたが、栄駕鵞が「生きて仕えられなかった上に死者を辱めれば後世の恥となる」と諫めてやめさせた。季孫が昭公に諡を贈ろうとした際も、栄駕鵞は「生前仕えられず死後に悪諡を贈れば自らの不忠を示すだけだ」と諫めてやめさせた。
  • 秋七月癸巳、昭公を墓道の南に葬った(後に孔子が司寇となった際、溝を掘って歴代の墓に合わせた。昭公が国を出たためにこの位置に葬られていた)。季平子は煬公に祈り、九月、煬宮を建てた。