春秋左傳事類始末宋、右師を逐う(宋逐右師)

宋の右師楽大心が晋への礼や労役を軽んじて咎められ続け、後には晋へ使いした楽祁の客死をめぐる混乱も経て、最終的に景公の疑いを受けて追放されるまでの経緯。

年表(4件)

魯昭公二十五年(前517年)

  • 叔孫婼が宋へ聘問した際、桐門右師(楽大心)が彼に会い、宋の大夫たちを見下し司城氏(楽氏の宗家)を賤しめる発言をした。昭子は従者に「右師はいずれ滅びるだろう。君子はまず自らを重んじてこそ他者にも及ぼせる、それが礼というものだ。今、彼は自国の大夫を見下し自らの宗家を賤しめている、これは自分自身を軽んじているのと同じで、礼を欠いていれば必ず滅びる」と語った。
  • 夏、諸侯は黄父に会し、趙簡子は諸侯の大夫に王室へ穀物を輸送するよう命じた。宋の楽大心は「我が国は周に対して賓客の立場にある、なぜ客に労役をさせるのか」と述べた。晋の士伯(士弥牟)は「践土の会以来、宋がどの労役に加わらず、どの盟約に加わらなかったことがあろうか。今は皆で王室を助ける番なのに、あなたが逃れられるはずがない。君命を奉じて重大な会に臨みながら盟約に背くのは許されまい」と反論した。右師は答えられず、書き付けを受け取って退いた。
  • 士伯は簡子に「宋の右師は必ず滅びる。君命を奉じて使いに出ていながら盟主に背こうとするのは、この上ない不祥事だ」と告げた。

魯定公六年(前504年)

  • 秋、宋の楽祁が景公に「諸侯の中で我が国だけが晋に忠実に仕えている、今もし使者を送らなければ晋は不満を持つだろう」と進言した。楽祁は家宰の陳寅に相談し、陳寅は「必ずあなた自身が行くべきだ」と答えた。後日、景公が楽祁に「必ず行ってくれ」と言うと、陳寅は「まず後継ぎを立ててから出発しなさい、そうすれば我が家は滅びずに済む。あなたも危険を承知で行くことになる」と忠告した。
  • 楽祁は難を見越しながらも出発し、趙簡子に迎えられて緡上で酒を振る舞われ、楊盾六十を簡子に献上した。陳寅は「かつて我が家の主筋は范氏であったのに、今あなたは趙氏に取り入り、しかも武具を贈って禍を招いている、これはよくない。ただしあなたが死ねば、晋の子孫は必ず宋で望みを遂げるだろう」と嘆いた。
  • 范献子(士鞅)は晋侯に「君命で国境を越えて使いに出た者が、使命を果たす前に私的に酒を飲んで礼を失した、これは両君に対する不敬であり咎めずにはいられない」と進言し、楽祁は捕らえられた。

魯定公八年(前502年)

  • 趙鞅が晋侯に「諸侯の中で宋だけが晋に仕えている、その使者を厚遇してもなお来なくなることを恐れるべきなのに、今また使者を捕らえているのは諸侯との縁を絶つに等しい」と進言し、楽祁を帰国させることになった。しかし楽祁は大行山で客死した。士鞅は「宋は必ず晋に背くだろう、遺体をひとまず留め置いて和解の材料とすべきだ」と述べ、遺体は州に留め置かれた。

魯定公九年(前501年)

  • 春、宋公は楽大心を晋へ派遣して盟に加わらせ、あわせて楽祁の遺体を迎えさせようとしたが、楽大心は仮病を使って断り、向巣と子明に命じて桐門右師(楽大心自身)に「私はまだ喪に服しているのに、あなたは鐘を鳴らして楽しんでいる、どういうことか」と伝えさせた。右師は「喪はここ(自分の身内)にはない」と答え、後で人に「喪中に子が生まれたのだから、なぜ鐘を鳴らしてはいけないのか」と語った。
  • これを聞いた子明は怒り、景公に「右師は戴氏(宋公の一族)に不利益をもたらすつもりで、晋へ行こうともしない、乱を起こそうとしているのではないか。そうでなければ病でもないのに使いを拒む理由がない」と告げ、桐門右師は追放された。