春秋左傳事類始末呉、州来を滅ぼす(呉滅州來)
呉が州來を攻略した後、楚は民力の疲弊を理由に討伐を控えるが、やがて州來に築城して呉を挑発し、沈尹戌の警告どおり鶏父の戦いで呉の公子光の策略により大敗する経緯を描く。
年表(4件)
- 魯昭公十三年前529年呉が州來を攻略、楚は民力未慰撫を理由に討伐を見送る
- 魯昭公十四年前528年楚王が然丹・屈罷に命じ軍の精選と民の慰撫を進めさせる
- 魯昭公十九年前523年楚が州來に築城、沈尹戌が慰撫の実態を疑い敗亡を予言
- 魯昭公二十三年前519年鶏父の戦いで呉の公子光の策により楚の連合軍が総崩れとなる
魯昭公十三年(前529年)
- 呉が州來を攻め落とした。楚の令尹子旗は呉を討とうと進言したが、楚王は「まだ民を慰撫できておらず、鬼神への祭祀も守備の整備も国政の安定も欠けている。ここで民力を用いれば敗れても悔やみきれない。州來が呉にあっても楚にあっても同じこと、今はまだ待つべきだ」と退けた。
魯昭公十四年(前528年)
- 夏、楚王は然丹に命じて宗丘で上国(内陸方面)の軍を精選させ、あわせて民を慰撫し、貧者を助け窮者を振るい、孤児・幼子を養い老人・病人を世話し、身寄りのない者を保護し、災害に苦しむ者を救い、孤児・寡婦を憐れみ、罪を赦し、姦悪を糺し、埋もれた人材を挙げ、礼を新たにし旧を序し、功に応じて禄を与え、良臣を用い、物資と官職を整えさせた。屈罷にも召陵で東国の軍を同様に精選させた。辺境を安んじ、五年間民を休ませてから兵を用いるのが礼にかなうとされた。
魯昭公十九年(前523年)
- 楚は州來に城を築いた。沈尹戌は「楚は必ず敗れる。かつて呉が州來を滅ぼした時、子旗が討伐を進言したが王は『まだ民を慰撫できていない』と退けた。今また同様の状況で城を築き呉を挑発すれば、敗れずにいられようか」と述べた。側近が「王は五年にわたり恩恵を惜しまず施し、民は十分に慰撫されたはずだ」と反論すると、戌は「私が聞くところ、民を慰撫する者は内を節約し外に徳を施し、民が生業を楽しみ争いを招かぬようにするものだが、今は宮室が際限なく造られ、民は疲弊し死者や逃亡者が相次いで、寝食すら忘れるほどだ。これは慰撫とは言えない」と反駁した。
魯昭公二十三年(前519年)
- 呉が州來を伐ち、楚の薳越が諸侯連合軍を率いて救援に向かった。呉の公子光は「楚に従う諸侯は多いが皆小国で、楚を恐れて仕方なく従っているに過ぎない。私が聞くところ、事を成すには威をもって愛に打ち勝つことが肝要で、小勢でも必ず成し遂げられる。胡・沈の君主は幼く軽率、陳の大夫は頑迷、頓・許・蔡は楚の政に苦しんでいる。楚の令尹は死に、軍の士気は落ち、寵臣が多くの実権を握り政令は一致していない。七国が同じ役に就きながら心はばらばらで、将帥は身分卑しく統率力もなく、大きな威令もない。楚は打ち破れる」と説いた。
- 先に胡・沈・陳を攻めれば必ず先に崩れ、他の諸侯の軍も動揺するだろうと見て、まず備えの薄い軍を先鋒に、後方は陣を厚く整えて臨むよう進言し、呉子はこれに従った。鶏父で戦いが起こり、呉子は罪人三千人を先鋒として胡・沈・陳の三国とぶつけ、後方に三軍を控えさせた。中軍は呉王自らが率い、右軍は掩餘、左軍は公子光が率いた。先鋒の罪人たちが浮足立ったところを見て、三国の陣は乱れ、呉軍はこれを撃破して胡・沈の君主と陳の大夫を捕らえた。
- 呉軍は胡・沈の捕虜を放って許・蔡・頓の陣に走らせ「我らの君は死んだ」と叫ばせると、三国の軍もどよめいて逃げ出し、楚の連合軍は総崩れとなった。