春秋左傳事類始末南蒯、費を以て叛く(南蒯以費叛)

季氏の家臣・南蒯が礼遇されぬ不満から費で反乱を起こすが失敗する顛末を三年にわたり描く。子仲との共謀、占いの解釈、費の民の離反、司徒老祁・盧癸の計略により南蒯は追放され斉へ亡命し、費は魯に返還された。

年表(3件)

魯昭公十二年(前530年)

  • 季平子が家督を継いだ後、家臣の南蒯を礼遇しなかった。南蒯は季氏の一族・子仲に「季氏を追い出し、その屋敷を公子に渡そう。私は費の邑を公室の直轄にする」と持ちかけ、子仲は同意して魯公に密告しつつ、そのまま公に従って晋へ赴いた。
  • 南蒯は成功を危ぶみ、先に費で反乱を起こした。子仲は帰国途中、衛で費の反乱を聞き斉へ亡命した。反乱を計画していた頃、南蒯の郷里の者はその様子を見抜き、「思案は深いが計略は浅い、身は近くにあるのに志は遠い、一介の家臣が主君を凌ぐ企てとは」と嘆いた。
  • 南蒯は占いを行い坤之比の卦を得て「黄裳元吉」(大吉)と解釈した。子服恵伯に見せて相談すると、恵伯は「忠信の事であれば吉だが、そうでなければ必ず敗れる」とし、黄・裳・元の各字が忠・信・善を象徴することを説き、易は不忠な企てを占うものではないと戒めた。
  • 南蒯は費へ赴く前に郷里で酒宴を開いたが、郷人はその企てを揶揄する歌を詠んだ。

魯昭公十三年(前529年)

  • 春、叔弓が費を包囲したが敗退した。季平子は怒り、捕らえた費の民を捕虜として厳しく扱おうとしたが、冶区夫は「そうすべきでない。寒がる者には衣を、飢えた者には食を与え、費の民を寛大に統治すれば人心は帰服する。威圧すればかえって民は叛乱側につく」と諫めた。平子はこれに従い、費の民は南蒯から離反した。

魯昭公十四年(前528年)

  • 当初、南蒯が反乱を企てた際、費の司徒・老祁と盧癸は、偽って病と称し、時機を待って南蒯と結ぶと申し出て許された。二人は民の離反の機運を利用し、民衆を集めて会盟すると見せかけて南蒯を脅し、「われらは長らく主君を忘れず、あなたを恐れて三年も命に従ってきたが、あなたがこのまま図らねば、費の民はもう主君を見捨てられず、あなたを恐れなくなるだろう」と迫り、五日の猶予を与えて追放した。
  • 南蒯は斉へ亡命し、斉の景公との酒宴で「叛逆者だな」と言われると、「公室(魯公)の権威を強めようとしただけです」と弁明した。斉の子韓晳は「家臣の身で公室を強めようとするなど、これ以上の罪はない」と評した。老祁・盧癸は費を魯に返還し、斉侯は鮑文子を遣わしてこれを取り次がせた。