春秋左傳事類始末単成公、卒す(單成公卒)
単成公(単子)が晋の韓宣子と戚で会見した際、視線や言葉遣いが礼にかなわぬことを叔向に見抜かれ、まもなく死去する経緯を描く。叔向は会合における立ち居振る舞いの規範を説き、単子の不作法から死期を予言した。
年表(1件)
- 魯昭公十一年前531年単子の非礼な立ち居振る舞いを叔向が見抜き死を予言、同年死去
魯昭公十一年(前531年)
- 単子(単成公)が戚で韓宣子と会見した際、目線を下げて話し方も緩慢であった。叔向はこれを見て「単子は間もなく死ぬのではないか」と評した。
- 「朝廷には位に応じた立ち居振る舞いがあり、会合には礼服・帯の結び方などの決まりがある。会合での発言は所定の位置から明瞭に発せられるべきもので、それによって物事の順序が明らかになる。目線は帯や襟の結び目の高さを超えないのが礼容である。言葉で意思を伝え、容儀でそれを明らかにするもので、これを欠けば過ちが生じる。ところが単子は王室の代表としてこの会合で命を伝える立場にありながら、目線は帯の高さにも至らず、言葉は歩みにも足りず、容儀は礼容から外れ、話し方も不明瞭であった」と述べた。
- 「不明瞭で不敬、道理も通らないのでは、生気を保てまい」と続け、果たして十二月、単成公は死去した。