春秋左傳事類始末楚子、章華の台を成し昭公楚に如く(楚子成章華之臺昭公如楚)

楚の霊王が章華の台を完成させ魯侯を招いた際、魯侯は薳啟疆の説得で楚を訪れるが、随行の孟僖子が儀礼に不慣れで失敗し、これを恥じて礼を学び始め、死に臨んで子に孔子への師事を遺言した顛末。

年表(1件)

魯昭公七年(前535年)

  • 楚子(霊王)が章華の台を完成させ、諸侯を招いて落成の儀を行おうとした。薳啟疆は「私が魯侯を招いてみせよう」と申し出た。
  • 魯侯(昭公)は当初辞退の意を示したが、薳啟疆は先君成公・共王以来の楚魯の好誼を長々と説き、「今もし魯侯が楚を訪れるなら、先君の霊も喜ぶだろう」と説得した。
  • 魯侯は楚行を決意したが、夢占いをした梓慎は「先君襄公が楚に行った際は夢に周公が祖道の儀を行う姿を見た、しかし今回は襄公自身が祖道を行う夢だ、行くべきでない」と諫めた。一方、子服恵伯は「先君が楚に行ったことがなかったから周公が導いたのだ、襄公はすでに楚に行っているから襄公が導くのは当然だ、行くべきだ」と反論した。
  • 三月、魯侯は楚へ赴いた。鄭伯は師の梁で労い、孟僖子が介添えを務めたが、儀礼に不慣れで失敗し、楚に着いても郊労の礼に応答できなかった。楚子は新台で魯侯をもてなし、長身の者を選んで「大屈」という名弓を披露させたが後で贈ったことを悔いた。薳啟疆はこれを聞いて魯侯に祝いを述べ、「斉・晋・越はこの弓を長く欲していたが、我が君は他に与えず貴国に伝えた、三国への備えを固められよ」と告げた。魯侯は恐れて弓を楚に返した。
  • 九月、魯侯は楚から帰国した。孟僖子は儀礼を果たせなかったことを恥じ、以後礼を学び始めた。
  • 孟僖子は死に臨み大夫たちを召し、「礼は人の根幹、礼なくして立つことはできない。孔丘(孔子)は聖人の後裔と聞く、その祖・弗父何は宋の君位を厲公に譲り、正考父は戴公・武公・宣公の三代に仕えて禄が増すごとに謙譲を深め、鼎の銘に『一命にして身を屈め、再命にして身をかがめ、三命にして俯し、壁伝いに歩めば誰も侮らず、粥をすすってでも口を糊する』と刻んだほど恭謙であった。聖人の徳ある者は当代に用いられずとも後にその子孫に達人が出るというから、それは孔丘であろう」と語り、自分の子(説・何忌)を孔子に師事させるよう遺言した。孟懿子と南宮敬叔は仲尼(孔子)に師事して礼を学んだ。

史論(仲尼曰)

  • 仲尼は「過ちを補う者こそ君子である」と述べ、詩の「君子は則とすべき、傚うべき」を引いて、孟僖子はまさに則り傚うべき人物だと評した。