春秋左傳事類始末呉、楚を伐ち朱方の役に報いる(呉伐楚報朱方之役)
呉が朱方の役への報復として楚を攻め、翌年楚も報復に呉を攻めて鵲岸で敗れるなど攻防が続く中、捕らえられた呉の使者蹶由が機知で命を救われ、後に楚が蹶由を呉へ帰すまでを描く。
年表(3件)
- 魯昭公四年(前538年)呉が朱方の役への報復として楚の棘・櫟・麻に侵入
- 魯昭公五年(前537年)楚が呉を攻めるも鵲岸で敗れ、捕らえた呉の使者蹶由を機知に免じて助命
- 魯昭公十九年(前523年)令尹子瑕の進言により楚が蹶由を呉へ帰す
魯昭公四年(前538年)
- 呉は楚を攻め、棘・櫟・麻の地に入り、朱方での役への報復とした。楚は沈尹射・箴尹宜咎・薳啟疆・然丹らを各地に配して防備を固めた。
魯昭公五年(前537年)
- 楚子は諸侯と東夷の軍を率いて呉を攻め、棘・櫟・麻の役への報復とした。呉軍出撃の報を受けた薳啟疆は急ぎ軍を率いたが備えが整わず、呉軍に鵲岸で敗れた。楚子は馹(早馬)で羅汭まで至った。
- 呉子は弟の蹶由を遣わして楚軍を犒(ねぎら)わせたが、楚人はこれを捕らえ、釁鼓(生贄として血を鼓に塗る儀礼)に用いようとした。楚王が「お前は吉と占って来たのか」と問うと、蹶由は「吉である。楚が軍を動かせば、呉はその怒りの度合いを見て備えを固められる。呉が敗れれば我が国は休息でき、楚が勝てば我々は備えを整えて呉が滅びを免れる、いずれにせよ吉である。国の吉凶を占うのは一身の吉凶を占うのとは違う」と巧みに答えた。
- 楚王はこれに感じ入り、蹶由を殺さなかった。楚軍は羅汭を渡ったが呉には入れず、坁箕山で軍容を示すにとどまった。呉はあらかじめ備えていたため、楚は戦果なく退却し、蹶由を連れ帰った。楚子はこれに懲り、呉に備えて沈尹射・薳啟疆をそれぞれ巢・雩婁に駐屯させた。
魯昭公十九年(前523年)
- 令尹子瑕が楚子に「蹶由に何の罪があろうか、以前の怒りは水に流すべきだ」と進言し、楚は蹶由を呉へ帰した。