春秋左傳事類始末魯荘公、晋に如き郊労贈賄礼を失わず(魯莊公如晉郊勞贈賄無失禮)
魯侯が晋を訪れ儀礼作法に一切過ちがなかったが、女叔斉はそれを真の礼ではないと見抜き、魯侯の抑留騒動と季孫宿の謝礼の際の辞譲ぶりを通じて、礼の本質と実利の両立を論じた記事。
年表(2件)
- 魯昭公五年(前537年)魯侯の晋訪問を女叔斉が儀礼作法に過ぎず真の礼ではないと評す
- 魯昭公六年(前536年)季孫宿が晋の過分な饗応を辞退し礼と実利を兼ねると評される
魯昭公五年(前537年)
- 魯侯が晋を訪れ、郊外での出迎えから贈答の儀礼まで一切の作法を過たなかった。晋侯が「魯侯は礼にかなっているのでは」と問うと、女叔斉は「それは単なる儀礼作法に過ぎず、礼とは言えない。礼とは国を保ち政令を行い民を失わないためのものだが、魯侯は政令を家臣に握られ、大国の盟を犯し小国を虐げ、公室は四分され、民の心も公室から離れている。そのような根本を顧みず、瑣末な作法にばかり熟達しているのは、むしろ礼から遠い」と評した。晋の君子はこれを聞き「叔侯こそ真に礼を知る者」と称えた。
- 夏、莒の牟夷が牟婁と防・茲の地を持って魯に亡命した。莒人は晋に訴え、晋侯は魯侯(昭公)を抑留しようとしたが、范献子は「朝見に来た者を捕らえるのは謀計であり、盟主として師を用いず謀で相手を陥れるのは不当だ」と諫め、魯侯は帰国を許された。
魯昭公六年(前536年)
- 夏、季孫宿が晋に赴き、莒の田の件を謝礼した。晋侯が過分な饗応(籩を通常より増やす厚遇)をしたところ、武子は使者を通じて「小国が大国に仕えるのは咎めを免れるためであり、贈り物を求めるものではない。三献を超えることは望まない」と辞退を申し出、加えられた分の撤去を求めてから儀を終えた。晋人はこれを「礼を知りながら実利も重んじる」と評した。