春秋左傳事類始末楚、椒挙を使わして晋に昏を請う(楚使椒舉請昏于晉)

楚の霊王が晋との婚姻を求め、屈生・子蕩が女を迎えに晋へ赴く道中、驕り高ぶる楚王を薳啟疆が晋の陣容を挙げて諫め改めさせ、翌年の答礼でも叔向が礼を尽くすべきと説いた3年間の記事。

年表(3件)

魯昭公四年(前538年)

  • 楚子(霊王)は椒挙を遣わして諸侯に求盟させ、あわせて晋への婚姻も申し入れ、晋侯はこれを許した。

魯昭公五年(前537年)

  • 楚は屈生を莫敖とし、令尹子蕩とともに晋へ女を迎えに行かせた。晋侯は邢丘まで女を送り、韓宣子が送迎し叔向が介添えを務めた。
  • 子大叔(游吉)は叔向に「楚王は驕り高ぶっている、警戒すべきだ」と忠告したが、叔向は「驕りはやがて自らに災いをもたらすもの。我らは信と礼を尽くして始めから終わりまで敬意を失わなければ、楚がどうあろうと問題ない」と答えた。
  • 楚子は大夫たちを前に「晋は仇敵だ、志を遂げられるなら他は顧みぬ。上卿・上大夫を辱めて晋に一泡吹かせよう」と語ったが、薳啟疆は「恥を与えるなら十分な備えが要る。城濮の戦いは晋が楚への備えを欠いて敗れ、邲の戦いは楚が晋への備えを欠いて敗れた。以来晋は備えを怠らず礼を厚くしてきたからこそ楚は勝てず今回の婚姻に至った。備えなく辱めれば逆に寇讐を招く」と諫め、晋の卿・大夫の陣容(韓起以下の名族の系譜)を詳しく列挙して警告した。
  • 楚王はこれを聞き「私の過ちだ」と認め、韓宣子への礼を厚くした。

魯昭公六年(前536年)

  • 楚の公子棄疾が晋へ赴き、韓起の答礼をした。かつて韓宣子が楚を訪れた際、楚人は出迎えなかった。晋侯も棄疾を出迎えまいとしたが、叔向は「楚が非礼でも我らまで倣うべきでない、善をもって則とすべきだ」と説き、晋侯はこれを聞き入れて棄疾を出迎えた。