春秋左傳事類始末鄭伯、晋に如き晋、公孫段に州田を賜う(鄭伯如晉晉賜公孫段州田)
鄭伯の晋訪問に随行した公孫段(伯石)が礼を尽くして州の田を賜り、長らく帰属の定まらなかった州の由来と、没後に子の豊施が州田を返上しようとしたのを子産が押し留めた顛末を描く。
年表(2件)
- 魯昭公三年(前539年)公孫段が礼を尽くして州の田を晋侯より賜る
- 魯昭公七年(前535年)公孫段没後、豊施が州田を返上しようとするが子産の説得で韓宣子が受け取り交換に応ずる
魯昭公三年(前539年)
- 鄭伯が晋を訪れた際、随行した公孫段(伯石)が礼を尽くして卑譲な態度を貫いたため、晋侯はこれを称え、州の田を功労の褒美として与えた。
- 州はもと欒豹の邑で、欒氏滅亡後は范宣子・趙文子・韓宣子がそれぞれ欲したが、趙文子は「私だけが得るのは不公平だ」として辞退し、他の二人も同様にしたため、長らく誰のものにもならなかった。後に文子が政を執った際、趙獲が「今こそ州を得る好機」と勧めたが、文子は「道理に反することは禍を招く」として固辞した。結局、州はゆかりのあった豊氏(公孫段)のもとに帰した。
史論(君子曰)
- 君子は「礼はその人にとって急務である。伯石は驕った人物であったが、一度晋で礼を尽くしただけで禄を受けた。まして礼を初めから終わりまで貫けば、なおのことだろう」と評し、詩の「人にして礼無くば、なんぞ速やかに死せざる」を引いて礼の重要性を強調した。
魯昭公七年(前535年)
- 公孫段(伯石)が没した後、子である豊施は「先人が請い得た州の田を継ぐ資格はない」として、州田を韓宣子に返上しようとした。子産は「父の残した薪すら負いきれない子のように、先人の禄を継ぐのは容易でない。しかも州の帰属をめぐり後日争いが起きれば鄭が咎めを受け豊氏も累が及ぶ、あなたが州を得れば鄭も豊氏も禍を免れる」と説き、宣子に受け取るよう求めた。
- 宣子は晋侯に報告してこれを受け、かねて欲していながら得られなかった原県を、代わりに楽大心へ与えて州と交換した。