春秋左傳事類始末晋侯疾有り鄭の公孫僑疾を問う(晉侯有疾鄭公孫僑問疾)
晋侯(平公)の病を機に鄭の子産が見舞い、神祟りより日常の乱れが病因と説いたことに始まり、晋と魯・鄭・斉の間の聘問・婚姻の往来と、晏嬰・叔向による晋斉両国の衰運を見通した評とが続く3年間の記事。
年表(3件)
- 魯昭公元年(前541年)子産が晋侯を見舞い、病因は神祟りでなく日常の乱れにあると説く
- 魯昭公二年(前540年)韓宣子が魯に聘い周礼を魯に見出し、少姜が晋侯の妻となるも急死
- 魯昭公三年(前539年)晏嬰が斉侯の継室を求めて晋に赴き、晏子・叔向がそれぞれ斉・晋の衰運を論じる
魯昭公元年(前541年)
- 晋侯(平公)が病に伏し、卜者は実沈・台駘という神が祟っていると占ったが、誰の神か分からなかった。鄭伯は公孫僑(子産)を晋へ聘わせ、見舞いさせた。
- 叔向の問いに、子産は高辛氏の二子(閼伯・実沈)の故事を語り、実沈は参星の神、金天氏の裔・台駘は汾水の神であり、いずれも晋侯個人の病とは無関係だと説明した。
- 子産はさらに、山川星辰の神は個人の病に関与せず、病の原因はむしろ日常の起居や心の乱れ、また晋侯が同姓の四人の姫を後宮に入れていること(内官不及同姓の礼に背く行い)にあると指摘した。晋侯はこれに感心し、子産を厚く遇した。
魯昭公二年(前540年)
- 晋侯は韓宣子を魯に聘わせ、宣子は大史のもとで易象と魯春秋を見て「周礼はことごとく魯にある」と感嘆した。魯の季武子・韓宣子はそれぞれ詩を賦して応酬し、宣子は帰途、斉に幣を納め、衞にも立ち寄って国交を結んだ。
- 韓須が斉に赴き、少姜(斉の陳無宇が届けた娘)を晋侯の妻として迎えた。少姜は晋侯の寵愛を受けたが、秋に急死し、魯侯(昭公)が弔問に赴いた。
魯昭公三年(前539年)
- 鄭の游吉が少姜の葬儀に赴くと、梁丙・張趯はその頻繁な聘問ぶりを評した。子大叔(游吉)は「文公・襄公の覇の時代は諸侯への負担が軽かったが、今は寵妃の喪にすら大夫を送らねばならず、煩わしさに耐えない」と嘆いた。
- 張趯は「今後はもう事がなくなるだろう、火(心宿)が夏に極まりやがて退くように」と晋の衰えを予言した。
- 斉侯は晏嬰を遣わして継室(少姜の後任)を晋に求めた。晏子の丁重な言葉により縁組が成立し、宴で晏子と叔向が語り合った。
- 晏子は「斉はもはや末世で、公室の民は陳氏になびいている。陳氏は公の量制より大きな枡で貸し出し、小さな枡で回収するなど民の心をつかんでおり、いずれ斉は陳氏のものになるだろう」と論じた。
- 叔向もまた「晋の公室も同じく末世で、戎馬は整わず、卿は軍を率いず、民は疲弊し宮室は驕り、公命を聞けば仇のように逃げる。公族はすでに衰え、羊舌氏も自分の代で絶えるだろう」と嘆いた。
- 景公が晏子の家を市場近くの狭い場所から移そうとしたが、晏子は先祖伝来の家であり市に近い方が便利だと固辞した。景公が「市に近いなら物価に詳しかろう、何が貴く何が安いか」と問うと、晏子は「踊(足切りの刑を受けた者の履く履物)が貴く、普通の履物が安い」と答えた。これは景公の刑罰が過酷であることを暗に諷したもので、景公はこれを聞いて刑を緩めた。
- 晏子が晋へ使いした間に景公は家を改築してしまったが、晏子は帰国後これを取り壊し、隣人の旧宅をもとに戻させた。「占うべきは宅地でなく隣人だ」という諺を引き、隣人を尊重する道理を説いた。
- 晋の韓宣子は改めて斉へ女を迎えに赴いた。公孫蠆は少姜の寵愛にあやかろうと、自分の娘を公女と入れ替えて嫁がせた。
史論(君子曰)
- 君子は、仁者の一言はその恩恵が広く及ぶものだと評した。晏子のひと言で斉侯が刑を緩めたことを、詩の「君子如祉、乱始遄已」(君子が喜べば乱れはすぐに止む)という句に重ねて称えた。