春秋左傳事類始末君子、昭公の終うる能わざるを知る(君子知昭公不能終)

魯襄公の死後、太子・子野も相次いで亡くなり、穆叔の反対を押し切って季武子が礼にかなわぬ禂(後の昭公)を立てた話。喪中でありながら悲しむ様子もなく愛想よくふるまう禂の様子から、君子はその末路を危ぶんだ。

年表(1件)

魯襄公三十一年(前542年)

  • 六月辛巳、襄公が薨じた。胡の女敬帰の子である子野を立てたが、九月癸巳、悲しみのあまり子野も亡くなった。そこで敬帰の妹にあたる斉帰の子、禂(読みは由)を立てた。穆叔はこれに反対し、「太子が死んだ場合、母の身分が同格の弟がいればこれを立て、いなければ年長の子を立てる、年齢が同じなら賢い者を選び、賢さも同じなら占いで決めるのが古来の道理だ。禂は正嫡の子(子野)ではないのに、なぜ妹の子だからというだけで立てるのか。しかもこの人物は、喪に服していながら悲しむ様子もなく、憂いの場にありながら愛想の良い顔をしている。これは節度をわきまえぬということだ、節度をわきまえぬ者が禍をもたらさぬ例は少ない。もしこのまま立てれば、必ず季氏の憂いとなろう」と述べた。武子(季武子)はこれを聞かず禂を立てた。葬儀に至るまでの間、喪服を三度も替え、その裾は元のままだらしなかった。この時、禂(後の昭公)はすでに十九歳であったが、なお子供のような幼さが残っていた。君子はこれを見て、昭公が最後まで無事に終えることはできないだろうと察した。