春秋左傳事類始末宋、火災(宋災)
宋の大廟に凶兆があった後に大火災が起こり、伯姫(共姫)が避難を待つ間に焼死した話。諸侯の大夫が澶淵に集まり宋への援助を協議したが結局実行されず、君子はその信義の欠如を厳しく批判した。
年表(1件)
- 魯襄公三十年前543年宋の大廟に凶兆があり大火災で伯姫が焼死し諸侯の援助は実行されなかった
魯襄公三十年(前543年)
- 宋の大廟で「譆譆(ああ、熱い)」と叫ぶ声がし、「出よ出よ」と鳥が亳社で鳴くのが聞こえた。まるで「譆譆」と告げるかのように、宋に大火災が起こった。宋の伯姫(共姫)は、傅母の到着を待って避難しようとしたため、火災に巻き込まれて亡くなった。君子はこれを評して「宋の共姫は女性としての礼はわきまえていたが、婦人としての臨機の判断には欠けていた。女性が人を待つのは正しい礼だが、婦人としては事態への対応も必要だった」と述べた。
- 宋の火災を受け、諸侯の大夫たちが集まって宋への援助を協議した。冬十月、叔孫豹・晋の趙武・斉の公孫蠆・宋の向戌・衛の北宮佗・鄭の罕虎、および小邾の大夫が澶淵で会したが、結局宋への援助は行われなかった。そのため史書にはこの会に集まった人物名を記さなかった。
- 君子は「信義は慎まねばならない。澶淵の会で卿の名を記さなかったのは、信義がなかったからだ。諸侯の上卿が会しながら約束を守らなければ、その名誉も評判も失われる。信義を欠くことの弊害はこれほど大きい」と評した。詩に「文王は天帝のそば近くに昇り降りする」とあるのは信義を、また「言動を慎み、偽りを行うな」とあるのも信義を説いたものである。史書に「某某の人々が澶淵で会した」と記したのは、宋の火災の件で彼らを責めたものである。