春秋左傳事類始末呉の公子光の乱(吴公子光之亂)

呉の季札が兄の後を継ぐことを固辞し節を貫く一方、諸樊・余祭が相次いで非業の死を遂げ、公子光が伍員の助力で刺客・鱄設諸に王僚を暗殺させて即位、季札はそれでも即位せず先人の道に従うまでの44年間の呉の内乱。

年表(8件)

魯襄公十四年(前559年)

  • 呉子・諸樊が喪を終え、季札を君に立てようとしたが、季札は「曹の宣公が没した際、諸侯も曹人も後継に不満だったが、子臧は身を引いて曹君を成り立たせた。君子はこれを『節を守り、義を貫く継承者』と称えた。私に才は無いが、子臧に倣い節を全うしたい」と固辞し、家財を捨てて田を耕したため、そのまま放っておかれた。

魯襄公二十五年(前548年)

  • 呉子・諸樊が楚を攻め、巣の城門で戦死した。

魯襄公二十九年(前544年)

  • 呉が越を攻めて捕虜を得、その者に船番をさせた。呉子・余祭が船を見に来た際、この門番に暗殺された。

魯襄公三十一年(前542年)

  • 呉が屈狐庸を晋に遣わした。趙文子が「延州来の季子(季札)はいずれ即位するのか」と尋ねると、屈狐庸は「巣で諸樊が没し、門番に余祭が殺されたのは、天が季子の即位を促しているようにも見えるが、そうではない。もし天が真に啓くとすれば、それは現在の後継者の血統にこそ表れよう。徳が篤く度量ある者が民に親しまれ事を整然と行う、それが天の啓く先である。呉国を保つのはこの君の子孫であろう。季子は節を守る人であり、国を持てる立場になっても即位しないだろう」と答えた。

魯昭公十五年(前527年)

  • 呉子・夷末が没した。

魯昭公二十年(前522年)

  • 楚から亡命した伍員(子胥)が呉に楚討伐の利を説いたが、公子光は「彼は一族を殺された恨みで復讐を企んでいる、従うべきではない」と退けた。伍員は光に別の野心があると見抜き、自らのために刺客を求めて田舎に身を退け、鱄設諸を見出して共に耕作した。

魯昭公二十六年(前516年)

  • 楚の平王が没した。

魯昭公二十七年(前515年)

  • 呉は楚の喪に乗じて攻めようとし、公子掩餘・公子燭庸に潜を包囲させ、延州来の季子(季札)を上国(中原諸国)への使者として晋へ派遣し諸侯の情勢を探らせた。楚は救援に軍を送り、両軍は窮で対峙し呉軍は退けなくなった。
  • 公子光は「今こそ好機」と、刺客・鱄設諸に「王位はもともと我が嗣ぐべきもの、季子が戻っても私を廃することはない」と語り決行を促した。鱄設諸は老母と幼子を案じたが、光が「お前と我とは一体」と応じたため決意した。夏四月、光は地下室に甲兵を伏せ王を饗応し、宴席中に鱄設諸が魚の腹に剣を隠して献上、王を刺殺した。光(後の闔廬)は自らの子を卿とした。
  • 季子は帰国後、「先君の祀りが絶えず、民に主があり、社稷が保たれ国が傾かない限り、その者こそ我が君である。誰を恨もうか。死者を弔い生者に仕え、天命を待つのみ。私自身が乱を起こして即位する者ではない、先人の道に従うだけだ」と述べ、王墓に復命して哭し、元の地位に戻って時を待った。