春秋左傳事類始末呉、楚を侵し楚呉師を敗る(吴侵楚楚敗吴師)

呉が楚の喪に乗じて侵攻したが庸浦の戦いで楚の伏兵に大敗し、続いて向での会盟後、晋の范宣子が姜戎の族長・駒支を疑い詰問するも駒支が晋への功と忠節を説いて反論した逸話を併せて描く。

年表(2件)

魯襄公十四年(前559年)

  • 呉が楚に侵攻し、養由基が急ぎ迎撃に赴き、子庚が後続の軍を率いた。養叔は「呉は我が喪に乗じて我らを侮り警戒を怠っているはずだ。三重の伏兵を布いて誘い出そう」と提案し、子庚もこれに従った。庸浦で戦い、呉軍を大敗させ公子党を捕らえた。君子は「呉は不仁である」と評し、『詩経』の「不弔昊天、乱靡有定」(無情な天よ、乱れが定まらない)の句を引いた。
  • 呉は晋にこの敗戦を報告し、向で会盟して楚討伐を謀った。范宣子は呉の不徳を数え上げて呉の使者を退けた。

駒支への詰問(同年)

  • 子叔斉子が季武子の補佐として同行して以来、晋は魯を厚く遇するようになった。春、向での会盟の際、姜戎の族長・駒支を捕らえようとし、范宣子が朝廷で「汝ら姜戎は、かつて秦人に故地を追われ、先君恵公が南方の荒地を与えて食客とした恩を受けた身。今、諸侯が我が君に不満を抱くのは、お前たちが機密を漏らしたせいであろう。明日の会議に立ち会わせぬ」と詰問した。
  • 駒支は「秦人が土地を貪って我ら諸戎を追い出した際、恵公の恩により南辺の荒れ地を賜り、荊棘を切り開いて開墾し、以来今日まで晋に叛いたことはない。かつて殽の戦いでも晋軍とともに戦い秦軍を挟撃した功がある。それ以来、晋の百度の戦役に付き従ってきたのに、どうしてこの度だけ疎まれるのか。むしろ政に何か欠けたところがあり、諸侯の離反を我ら戎のせいにしているのではないか。我らは衣食も言語も中原と異なり、会議に加わらずとも恥ずべきことはない」と反論し、『詩経』の「青蠅」(讒言を戒める詩)を賦して退出した。宣子は非礼を詫び、会議への出席を求め、寛容な態度を示した。
  • これ以降、晋は魯からの貢納を軽くする一方、その使者をより敬うようになった。