春秋左傳事類始末盗、鄭の執政を殺す(盜殺鄭執政)

鄭の子駟が田の境界を改め五族の恨みを買った末、尉止らの賊に子駟・子国・子耳が殺害される西宮の変が起き、子産が賊を討ち事態を収める。以後、子孔の専権と粛清に至るまでの鄭内乱の経緯を描く。

年表(1件)

魯襄公十年(前563年)

  • 秋、楚の子囊と鄭の子耳が魯の西境を侵し、蕭を包囲した。九月には子耳が宋の北境を侵した。孟献子は「鄭は災いを招くだろう。争いが度を過ぎている。周でさえ堪えられぬのに鄭ではなおさらだ。その災いは幼く未熟な三人の執政者に降りかかるのではないか」と評した。
  • 諸侯が鄭を討ち牛首に陣した。発端は、子駟と尉止の車をめぐる争いで、子駟が尉止の功を退けたことにあった。また子駟は田の境界(洫)を改めて司氏・堵氏・侯氏・子師氏の田を奪ったため、五族が恨みを募らせていた。当時、子駟が国政を執り、子国が司馬、子耳が司空、子孔が司徒であった。
  • 冬、尉止・司臣・侯晉・堵女父・子師僕が賊を率いて侵入し、明け方に西宮の朝廷で子駟・子国・子耳を殺害、鄭伯を脅して北宮へ拉致した。子孔は事前に知っていたため難を逃れた。子西(子駟の子)は賊の襲来を知りながら備えず、父の遺骸を追ううちに賊は北宮から脱出して帰った。武器を配ろうとしたが臣下や器物の多くはすでに散逸していた。
  • 変事を聞いた子産(子国の子)は門衛を固め、諸官の職務を整え、府庫を閉じ、守りを完成させたうえで出撃し、戦車十七乗で北宮の賊を攻めた。子蟜も国人を率いて加勢し、尉止・子師僕を討ち、侯晉は晋へ、堵女父・司臣・尉翩・司斉は宋へ逃れた。
  • 子孔が国政を執り、身分に応じた統治秩序を定める盟約書を作成したが、大夫たちが従わず、誅殺しようとした。子産はこれを止め、盟約書を焼くよう提案。子孔は「これで国を定めたのに、衆怒に押されて焼けば衆が政を為すことになる」と難色を示したが、子産は「衆怒は防げず、専断の欲も貫けない。二つの難を併せ持つのは国を危うくする道であり、書を焼いて衆を安んじる方が、あなたの望みも衆の安寧も両立する」と説き、倉門の外で盟約書を焼いて事態を収めた。
  • 十五年(前558年)、逃亡した賊の残党が宋にいたため、子西・伯有・子産は宋に馬四十匹などを贈り、師茷・師慧・公孫黒を人質とした。宋の司城子罕は堵女父・尉翩・司斉らを鄭に引き渡し、良臣の司臣だけは逃がして季武子に託し、卞に住まわせたが、鄭人は他の三人を醢刑に処した。師慧が宋の朝廷を通りかかった際、私的な用向きを口にしようとしたが、供の者に「朝廷には人がいない」と言われ、「本当に人がいれば、千乗の宰相の位を淫楽の楽人と易えるようなことはしないはずだ」と皮肉った。これを聞いた子罕は改めて師慧を鄭へ帰した。
  • 十八年(前555年)、子孔は他の大夫たちを排除しようと企み、晋に背いて楚軍を招き入れようとした。子庚は汾で軍を訓練していたが、この時、子蟜・伯有・子張は鄭伯に従って斉を攻めており、子展・子西が国を守って子孔の企みを察知、守りを固めたため子孔は楚軍と合流できなかった。楚軍は鄭を攻め、純門で対陣したのち撤退した。
  • 十九年(前554年)、子孔の専権に国人が憤り、西宮の変や純門の役の責を問い、子孔はその甲兵と子革・子良の甲兵で自衛しようとしたが、子展・子西が国人を率いて討ち、子孔を殺してその家財を分けた。子革(宋子の子)と士子孔(圭媯の子)は家柄が近く、司徒の孔實が両家を実質的に一つの家として治めていたため難に巻き込まれ、子革・子良は楚へ亡命し、子革は右尹となった。鄭は子展を国政、子西を執政とし、子産を卿に任じた。