春秋左傳事類始末晋、偪陽を滅ぼす(晉滅偪陽)

晋の荀偃・士匄が偪陽を攻め、荀罃の叱責もあって城を陥落させ、宋の向戌が固辞したため宋公に与える。その後、宋公が桑林の楽で晋侯を饗応した際の祟りの逸話までを描く。

年表(1件)
  • 魯襄公十年前563年晋が偪陽を陥落させ宋公に与え桑林の楽での饗応をめぐる祟りが起きる

魯襄公十年(前563年)

  • 晋の荀偃・士匄が偪陽を攻めて宋の向戌に与えようと提案した。荀罃(知伯)は「小城でも守りが固ければ勝っても武勇にならず、負ければ物笑いになる」と渋ったが、結局包囲に踏み切った。
  • 偪陽側が城門を開いて誘い込む策を仕掛け、連合軍の兵が門内に入ったところで垂れ門を落とした。郰人の紇(孔子の父・叔梁紇)が力ずくで垂れ門を持ち上げ、中にいた兵を脱出させた。狄虒彌は車輪に甲を被せて大盾とし、片手で支え片手で戟を振るい一隊を成した。孟献子は『詩経』の「力は虎の如し」の句を引いて称えた。
  • 守備側は布を垂らして誘い、秦堇父が登ったところで綱を断ち切った。堇父は落ちても三度登り直し、退いてから傷口を縛って三日間軍中を巡った。
  • 包囲が長引き、荀偃・士匄は撤退を進言したが、知伯(荀罃)は激怒して机を投げつけ、「お前たちは二つの仕事を済ませてから相談すべきなのに、私が命令を乱すと思ったのか。もう七日で落とせなければ処分する」と叱責した。五月庚寅、荀偃・士匄が城を攻め、甲午に陥落させた。
  • 偪陽を宋の向戌に与えようとしたが、向戌は「私利のために諸侯を動かしたことになる」と固辞し、宋公に献じられた。
  • 宋公は楚丘で晋侯を饗応し、殷の天子の楽「桑林」を用いようとした。荀罃は辞退したが、荀偃・士匄は「魯と宋は礼を観る立場にある」と勧め、上演された。舞師が大旗を掲げると晋侯は恐れて部屋に退き、旗を下げてから宴を終えた。
  • のちに著雍で晋侯が病んだ際、占いに桑林の祟りが出た。荀偃・士匄は祈祷を勧めたが、荀罃は「我々は礼を辞退した以上、あちらの鬼神の問題だ」と拒んだ。晋侯は回復し、捕らえた偪陽の君を武宮に献じて「夷俘」と呼んだ。
  • 帰還後、孟献子は秦堇父を自らの車右とした。堇父の子・秦丕兹はのちに孔子に師事した。