春秋左傳事類始末晋、戎と和し鄭を服す(晉和戎服鄭)

鄭の成公没後、子駟らが晋への服従を巡って動揺する中、晋は虎牢に城を築いて鄭を服させ、魏絳の進言により戎狄とも和睦する。以後、晋・楚の板挟みとなった鄭は離反と服従を繰り返すが、蕭魚の会盟でついに晋に帰服し、魏絳が金石の楽を賜るまでの11年間の経緯。

年表(8件)

魯襄公二年(前571年)

  • 鄭の成公が病に伏し、子駟は晋への服従に転じて肩の荷を下ろすよう進言した。成公は「楚君はわが国のために自ら矢を目に受けた。それは他人ではなく私自身への恩である。もしこれに背けば、力と盟誓を捨てることになる。それでは誰が我らに親しんでくれようか。私が死んだ後は、あなた方の判断に任せる」と答えた。秋、鄭伯睔(成公)が薨じた。子罕が国政を統轄し、子駟が政務を執り、子国が司馬となった。晋軍が鄭に侵攻すると、多くの大夫が晋に従おうとしたが、子駟は「亡き君の命はまだ変わっていない」と退けた。戚で会盟し鄭への対策を協議した。孟献子は虎牢に城を築いて鄭に圧力をかけることを求め、知武子(荀罃)はこれを認めた。冬、再び戚で会盟し虎牢に城を築くと、鄭はついに服従した。

魯襄公四年(前569年)

  • 無終の君主・嘉父が孟楽を晋に遣わした。晋侯は「戎狄には親しみがなく貪欲だから討伐すべきだ」と言ったが、魏絳は「諸侯はようやく服し陳も新たに和したところ、我らの徳が問われている。戎に軍を疲弊させれば楚が陳を攻めても救えず、諸侯も皆離反する。戎は禽獸のようなもので、それを得て中原の諸侯を失うのは得策ではない」と反対し、『夏訓』にある有窮の后羿の故事を引いた。
  • 后羿はかつて夏の衰退に乗じ、窮石から夏の民を得て政権を奪ったが、狩猟に耽り民政を怠り、賢臣を退けて寒浞を重用した。寒浞は讒臣の家に生まれ、羿に見出され信任されたが、内では夫人に媚び外では賄賂を施し、羿を狩猟に溺れさせて国を奪った。羿は狩りから帰る際、家臣に殺されその肉を食わされ、子も食べるに忍びず死んだ。羿の旧臣・靡は有鬲氏に逃れた。寒浞は羿の妻を娶り澆と豷を生み、澆に斟灌・斟尋を滅ぼさせ、澆を過に、豷を戈に置いた。靡は有鬲氏の遺民を集めて寒浞を滅ぼし少康を立て、少康は澆を過で、その子・杼は豷を戈で滅ぼし、有窮は滅んだ。これも人材を失ったゆえである。
  • 昔、周の史官・辛甲は百官に箴言を命じ、虞人の箴には「禹の広大な事績は九州を画し九道を開いた。人には住居があり獣には草原がある。それぞれの場を守れば徳は乱れない。しかるに帝の代の羿は狩猟に溺れ国を滅ぼした」とあり、これは戒めとすべきだと魏絳は説いた。晋侯も狩猟を好んだため、魏絳はこの話を持ち出したのである。
  • 公が「では戎と和すべきか」と問うと、魏絳は「和戎には五つの利がある。戎狄は移動して住み財貨を重んじ土地を軽んじるため、土地を買い取れる(一)。辺境が騒がず民は安んじて耕作に励む(二)。戎狄が晋に服せば周辺諸侯も畏服する(三)。徳で戎を懐柔すれば軍を労せず武器も傷まない(四)。后羿を鑑として徳を用いれば遠きを治め近きを安んじられる(五)」と答えた。公は喜び、魏絳に諸戎と盟約させ、民政と農耕を時宜に行わせた。

魯襄公八年(前565年)

  • 鄭の子国・子耳が蔡に侵攻し蔡の司馬・公子燮を捕らえた。鄭人は喜んだが、子産だけは同意せず、「小国が武徳もないのに武功を立てれば禍が大きい。楚が討伐に来れば従わざるを得ず、そうなれば晋も攻めてくる。晋・楚がこもごも鄭を攻めれば、この先四、五年は安寧を得られない」と諫めた。子国は怒り「お前に何が分かる、国には大命があり正卿が決めることに童子が口を出すな、罰せられるぞ」と叱った。
  • 冬、楚の子囊が蔡侵攻を咎めて鄭を攻めた。子駟・子国・子耳は楚に従おうとし、子孔・子蟜・子展は晋を待とうとした。子駟は「河が澄むのを待つように悠長な話だ。人の寿命は短い。占いも謀議も多すぎればかえって成らぬ。策が多く民の考えも割れれば事は成らない。民は切迫している。まずは楚に従って民を安んじ、晋軍が来ればまた従えばよい。幣帛を用意して強者を待つのが小国の道だ」と主張した。子展は「小国が大国に仕えるには信が要る。信がなければ乱が絶えず滅亡は目前だ。これまで五度の会盟の信義を今裏切れば、たとえ楚が救っても頼りにはならない。晋は今や明君のもと四軍に欠けなく八卿は和睦しており、鄭を見捨てるはずがない。楚軍は遠征で兵糧が尽きればすぐ撤退する。信を守って晋を待つべきだ」と反論した。子駟は『詩経』を引いて「謀る者が多すぎればまとまらない」と述べ、自らその咎めを引き受けるとして楚と和した。晋に使いを送ると、知武子の使者・子員は「楚に従うのは貴国の勝手、寡君も逆らわぬ。ただし晋軍は諸侯を率いて城下に至るであろう」と告げた。
  • 晋の范宣子が魯を訪れ、鄭討伐を告げた。公は宣子を饗応し、宣子は『摽有梅』の詩を賦して魯に鄭討伐への協力を促した。季武子は「もちろん従います、寡君はあなたと同族のようなもの」と答え『角弓』の詩を賦した。宣子が帰る際、武子は『彤弓』の詩を賦し、宣子は「城濮の戦いで先君文公が衡雍で功を献じ、襄王より彤弓を賜った。それを子孫のために守るのが務め」と応じた。

魯襄公九年(前564年)

  • 冬、諸侯は氾に軍を集めて鄭を攻めるべく、装備を整え老幼を虎牢に帰し、罪を赦して鄭を包囲した。鄭人は恐れて和を求めた。中行献子(荀偃)は「このまま包囲して楚の救援を待ち、決戦すべきだ」と主張したが、知武子(荀罃)は「和を許して軍を退き、楚を疲弊させよう。四軍の三分の一と諸侯の精鋭で迎え撃てば我らは疲れず楚は勝てまい。戦って死屍を晒すより得策だ。君子は心を労し小人は力を労するのが先王の制だ」と説いた。諸侯も戦を望まなかったため鄭との和を許し、十一月、戯で盟約を結んだ。鄭の六卿・公子騑(子駟)以下と大夫の門子(卿の嫡子)も皆従った。晋の士荘子が載書を作り「今後鄭が晋の命に従わなければこの盟の如く罰を受けよ」と記すと、公子騑が進み出て「天が鄭に禍し、大国の間に挟まれた小国を徳ではなく武力で脅すなら、鬼神も祭祀を受けず民も安んじられない。今後、鄭が礼と力とをもって民を守れる者に従わないなら、この盟の如く罰を受けよ」と改めて誓った。荀偃が載書を書き直そうとすると、公孫舎之が「神に誓った言葉を改められるなら、大国とて盟いを破れることになる」と反対した。知武子は献子に「不徳のまま人に盟を強いるのは礼ではない。ひとまず盟って退き、徳を修めて軍を休め、いずれ必ず鄭を得よう。今日にこだわる必要はない。徳がなければ民は離れる、鄭に限らぬ話だ。遠人が懐けば鄭を頼る必要もない」と諭し、盟って軍を退いた。しかし晋は鄭を得た実感がなく、諸侯と再び鄭を攻めた。
  • 襄公は晋侯を見送り、晋侯は河のほとりで襄公を宴し、その年齢を問うた。季武子は「沙随の会の年にお生まれです」と答えた。晋侯は「十二年、一星終(歳星が天を一周する年数)にあたる。国君は十五で子を生み、元服して子を生むのが礼。もう元服の年齢だ、卿は準備されよ」と促した。武子は「元服は祼享の礼(鬯酒を灌ぎ祖先を祀る儀礼)を金石の楽で整え、先祖の廟で行うもの。今は行軍中で用意できません。兄弟国に借りて整えます」と答え、晋侯は了承した。帰途、衛に立ち寄り成公の廟で元服の礼を行った。
  • 楚子が鄭を攻めると、子駟は楚と和そうとしたが、子孔・子蟜は「大国と盟ったばかりで、これに背いてよいのか」と反対した。子駟・子展は「盟いはもとより『強き者に従う』としている。楚軍が来て晋が救わぬなら楚が強い証。盟いの言葉に背くわけではない。しかも強要された盟いには神も臨まぬもの。神が臨むのは信のみ。要盟に背くのは差し支えない」として楚と和した。
  • 晋侯は帰国後、民を休ませる方策を協議した。魏絳は蓄えを民に貸し出す施しの政(施舍輸積聚)を求め、公以下の余剰をすべて放出させ、国に滞りも民の困窮もなくした。公は利を独占せず民の貪りもなくなり、祭祀は幣帛のみで犠牲を用いず、賓客には特牲のみを用い、器物・車服を新調せず既存のもので賄った。一年でこの方策は行き渡り、国には節度が生まれ、三度出兵しても楚は対抗できなくなった(この後、十年に牛首、十一年に向へ出兵し、その秋に鄭を討ち、以後鄭は服したとの注記)。

魯襄公十年(前563年)

  • 六月、楚の子囊と鄭の子耳が宋を攻め、訾で戦った。衛侯が宋を救おうとせず、子展は「衛を討たねば楚に与しないことになる」と主張、子駟は「国が疲弊する」と渋ったが、子展は「二大国に罪を得るよりはましだ」と説き、鄭の皇耳が衛に侵攻した。衛の孫文子はこれを追撃すべきか占い、その兆を定姜に示した。定姜は「兆は山陵の形で、出征した将が雄(大将)を失うとある。追撃を利とする兆だ」と判じ、孫蒯が犬丘で鄭の皇耳を捕らえた。
  • 九月、諸侯は鄭を攻め牛首に布陣、虎牢に城を築いて駐屯し、晋軍は梧・制にも城を築いて守った。鄭は晋と和したが、楚の子囊が鄭を救おうとした。十一月、諸侯の軍は撤退し、鄭を経て南下し陽陵に至ったが楚軍は退かなかった。知武子は「今退けば楚は驕り、驕れば戦える」と主張したが、欒黶は「楚を避けるのは晋の恥だ、自分だけでも進む」と単独で進軍し、楚軍と潁水を挟んで対陣した。子蟜は「諸侯はすでに和議を結んでいる以上、戦にはならない。従っても退けば従わなくても退くことになる。退けば楚に囲まれる恐れがあるから、むしろ楚に従って共に退くべきだ」と述べ、夜のうちに潁水を渡って楚と盟った。欒黶は鄭を攻めようとしたが荀罃が「我らは楚を防げず鄭も守れない。鄭に罪はない、恨みを買うより撤退すべきだ」と止めた。丁未、諸侯の軍は鄭の北の辺境を侵しつつ撤退し、楚軍も引き上げた。

魯襄公十一年(前562年)

  • 鄭人は晋・楚の板挟みに苦しみ、大夫たちは「晋に従わねば国はほぼ滅ぶ。楚は晋より弱いから晋は本気を出さない。晋を怒らせ、楚が敵わぬようにさせねば、真に晋に与することはできない」と議論した。子展は「宋を挑発すれば諸侯は必ず出兵する。それに従い、楚軍が来ればまた楚に従えば、晋の怒りは頂点に達する。晋が頻繁に出兵すれば楚は対抗できず、我らはようやく晋にしっかり与することができる」と述べ、鄭の辺境役人に宋を挑発させた。宋の向戍が鄭を攻め大勝すると、子展は「今こそ宋を討つべき」と主張、夏に子展は宋に侵攻し、諸侯は鄭を攻めて向に布陣した。鄭人は恐れて和を求め、秋、亳で同盟した。范宣子は「慎重にせねば諸侯を失う。諸侯は疲弊しこのままでは離反する」と載書を作り、「同盟する者はいつまでも旧怨を蓄えず、利を独占せず、悪を匿わず、災いを共に救い、王室を助けよ。これに背く者は山川・神々・先王の霊がこれを罰し、その民を失わせ命を絶ち、国を滅ぼす」と誓った。
  • 楚の子囊は秦に援軍を求め、秦の右大夫・詹が軍を率いて楚に従い鄭を攻めようとした。鄭伯はこれを迎え、宋を攻めた。九月、諸侯は総力で再び鄭を攻めた。鄭人は良霄・太宰石㚟を楚に遣わし、晋に服することを告げさせ「わが国は社稷のため貴国に背かざるを得ない。玉帛で晋と和を図るもよし、武力で威圧するもまたわが望みである」と伝えたが、楚人はこれを捕らえた。諸侯の軍は鄭の東門に兵を示すと、鄭人は王子伯駢を遣わして和を請い、十二月、蕭魚で会盟した。晋は鄭の捕虜を赦して礼をもって帰し、斥候を退かせ略奪を禁じた。鄭人は晋侯に楽師や兵車百乗、歌鐘二肆・鎛磬・女楽二列を贈った。晋侯はその楽の半分を魏絳に与え、「あなたが戎狄と和し中原を正してくれたおかげで、八年の間に九度諸侯を会し、楽の調和のように何事も調った。共にこの楽を享受しよう」と述べた。魏絳は「戎狄と和すのは国の福、諸侯が背かぬのは君の徳と皆の働きによるもの。私に何の力がありましょう。ただ願わくは、君が安楽の中にも終わりを思われますように」と述べ、『詩経』や『尚書』を引いて「安きに居りて危うきを思う、備えあれば憂いなし」と諫めた。公は「その教えに従おう。ただし賞は国の典礼、盟府に記された定めゆえ廃せない」として楽を受けさせた。魏絳はこうして初めて金石の楽を用いることを許された。これは礼にかなうこととされた。

魯襄公十二年(前561年)

  • 楚の子囊と秦の庶長・無地が宋を攻めた。晋が鄭を得たことへの報復であった。

魯襄公十三年(前560年)

  • 冬、鄭の良霄・石㚟はなお楚にとどまっていた。石㚟は子囊に「先王は五年ごとに遠征を占い、吉兆が続けば行い、続かねば徳を修めて占い直した。今、楚の勢いは振るわない。使者に何の罪があろうか。鄭の一卿を留めて圧力をかけるより、鄭を楚から遠ざけ晋に固く結びつけてしまうだけだ。むしろ帰し、使命を果たせなかったことにすれば、鄭は主君を怨み大夫を憎んで互いに争うことになり、そのほうが得策ではないか」と説いた。楚人はこれを容れて二人を帰した。