春秋左傳事類始末斉、萊を滅ぼす(齊滅萊)
斉の霊公が萊を攻めた際、萊は夙沙衛への賄賂で撤退を得たものの、その謀略を頼みとしすぎた結果、5年後に斉が萊を滅ぼすに至るまでの経緯を描く。
年表(2件)
- 魯襄公二年前571年萊が夙沙衛への賄賂で斉軍を撤退させる
- 魯襄公六年前567年斉が謀略を過信した萊をついに滅ぼす
魯襄公二年(前571年)
- 斉侯が萊を攻めた。萊人は正輿子を遣わし、夙沙衛に索馬・索牛それぞれ百匹を賄賂として贈らせ、斉軍は撤退した。君子はこれによって霊公が「霊」と諡された理由(不明瞭な行い)を知ったという。
- 夏、斉姜(成公夫人)が薨去した。かつて穆姜は美しい檟の木を選んで自分の棺と頌琴(雅楽用の琴で葬送の品)に用いるよう命じていたが、季文子はそれを取って斉姜の葬儀に用いた。君子は「これは礼に反する」と評した。礼では、逆らわずに姑に仕えるのが嫁の道であるのに、姑(穆姜)の意を虧いて嫁(斉姜)の葬儀を整えるのは最大の背礼である。『詩経』に「賢者は善言を人に告げ、徳の行いに従わせる」とあるが、季孫のこの行いは賢明とは言えない。また斉姜は成公の亡母であり、『詩経』に「酒と醴を供え祖先に捧げれば百礼が調い福が降る」とあるのに、と評された。斉侯は諸姜・宗婦を遣わして葬送に来させ、萊子を招いたが、萊子は応じなかった。そのため晏弱は東陽に城を築いて萊に圧力をかけた。
魯襄公六年(前567年)
- 斉侯はついに萊を滅ぼした。萊は自らの謀略(夙沙衛への賄賂の計)を頼みとしすぎたためである。