春秋左傳事類始末晋、悼公を立てる(晉立悼公)
晋の欒書・中行偃が厲公を弑逆した後、周子(悼公)を京師から迎えて即位させ、十四歳ながら不忠の臣を追放し百官の任命と施政を整えて晋が覇を回復するに至る経緯。
年表(1件)
- 魯成公十八年前573年悼公が即位し百官を整え施政を行い晋が覇を回復する
魯成公十八年(前573年)
- 晋の欒書・中行偃は厲公を弑逆し、荀罃・士魴を遣わして周子(悼公)を京師から迎えて即位させた。悼公はこのときまだ十四歳であった。大夫たちは清原で出迎え、悼公は「私はもとよりこうなることを望んでいなかったが、これも天命であろう。ただ人が求めて君として立てたのに、命令を発するのが自分でなければ君を立てても意味がない。あなた方が私を用いるのは今日、用いないのも今日、共に従うも今日である」と述べた。大夫たちは「群臣の願いです。命に従わぬはずがありません」と答え、盟約して国に入り、不忠の臣七人(厲公の寵臣たち)を追放した。周子には兄がいたが愚かで豆と麦の区別もつかなかったため、君に立てられなかった。
- 二月乙酉、悼公は即位すると直ちに百官に命じて施しを行い、負債を免じ、独居の老人や寡婦を助け、廃れていた徳を興し、困窮を救い、災いを防ぎ、淫らな行いを禁じ、税を軽くし、罪を許し、器物・用度を時宜に応じて用い、民の欲するところを時に応じて満たし節度を保った。魏相・士魴・魏頡・趙武を卿とし、荀家・荀会・欒黶・韓無忌を公族大夫として卿の子弟に礼節・倹約・孝悌を教えさせた。士渥濁を大傅とし范武子の法を修めさせ、右行辛を司空として士蒍の法を修めさせた。弁糾を戎の御者とし、校正の官にこれを属させ、御者たちに義を教えさせた。荀賔を右司士とし車右の官にこれを属させ、勇力の士に時を守ることを教えさせた。卿には常時仕える御者を置かず、軍尉を立てて統轄させ、祁奚を中軍尉、羊舌職をその補佐とし、魏絳を司馬、張老を候奄とし、鐸遏寇を上軍尉、籍偃をその司馬として、兵卒・兵車を親しく統率し命令に従わせた。程鄭を乗馬御とし、六騶をこれに属させて騎兵に礼を教えさせた(乗馬御・六騶は周礼の制で、諸侯には六閑・乗車の礼容の教育に用いた、との注記)。
- こうして任じられた六官の長はいずれも民の信望が篤い者ばかりで、任用に不正はなく、官職の方針は変わらず、爵位は徳を超えず、将師は主命の卿を凌がず、民に不満の声はなかった。これが晋が再び覇を回復した所以である。
(以降、魯は襄公の代に入る)