春秋左傳事類始末桓族、宋を乱す(桓族亂宋)

宋の桓族の一人蕩澤が公室の力を弱め公子肥を殺したため、華元は責を負って晉へ出奔するが魚石の説得で帰国し蕩氏を討つ。魚石ら五大夫は楚へ出奔して彭城に拠り、晉が宋を救援して彭城を攻め落とし五大夫を捕らえるまでを描く。

年表(3件)

魯成公十五年(前576年)

  • 秋、宋の共公を葬った。このとき華元が右師、魚石が左師、蕩澤が司馬、華喜が司徒、公孫師が司城、向為人が大司寇、鱗朱が少司寇、向帶が太宰、魚府が少宰であった。蕩澤は公室の力を弱め、公子肥を殺した。華元は「私は右師として君臣の教えを司る立場にありながら、公室が衰えるのを正せなかった、これは私の大罪だ。官を治められぬ身で寵を頼るわけにはいかない」と述べて晉へ出奔した。
  • 華氏・戴氏・司城(荘氏)を含む六官は皆桓公の一族(桓族)であった。魚石は華元を引き止めようとしたが、魚府は「右師が帰れば必ず討たれる、それでは桓氏そのものがなくなってしまう」と反対した。魚石は「右師がもし帰れれば、たとえ討伐を許されても敢えて実行はしまい、それに右師には大きな功もあり国人も彼を支持している。帰さなければ桓氏の祭祀が宋で絶えることを恐れる。右師が討たれても桓氏の血筋はなお残る、桓氏が滅びるとしても一部にとどまるだろう」と述べ、自ら黄河のほとりまで行って華元を引き止め、討伐を認めるよう請うた。華元はこれを許して帰国し、華喜・公孫師に国人を率いて蕩氏を攻めさせ、子山を殺した。魚石・向為人・鱗朱・向帶・魚府は睢水のほとりに退いた。華元が引き止めたが応じず、左師(魚石)・二司寇・二宰は楚へ出奔した。華元は向戌を左師、老佐を司馬、樂裔を司寇に任じて国内を鎮めた。

魯成公十八年(前573年)

  • 楚の子辛と鄭の皇辰が共同で彭城を攻め、宋から出奔していた魚石・向為人・鱗朱・向帶・魚府をそこに入れ、三百台の戦車で守らせて引き上げた。宋人はこれを憂い、西鉏吾は「もし楚が我らと同じ思いで恩義を施すというなら、我らは従うほかない。だが大国が飽くことなく我らを軽んじ、恨みを買ってなお不満とするなら、あるいは我らが憎む者たち(魚石ら)を取り込んで政に参加させ、我らの隙をうかがっているのかもしれない。それも憂いである。今、諸侯の中の姦臣を重んじその土地を割いて呉と晉を結ぶ要路を塞ごうとしているのは、姦を助長しつつ諸侯の心を離反させ、諸侯を苦しめて呉・晉を畏れさせようとするものだ、我らへの働きかけは大した意味はなく、憂うるには及ばない。それに晉に事えて何になろう、晉は必ず我らを助けてくれるはずだ」と述べた。
  • 七月、宋の老佐・華喜が彭城を包囲したが、老佐は陣中で没した。冬、楚の子重が彭城を救援し宋を攻めた。宋の華元は晉に急を告げた。韓献子(韓厥)が政を執り、「人望を得ようとするなら、まず骨折りを厭わぬことだ、覇を成し国境を安んじるのは宋を助けることから始まる」と述べた。晉軍は宋を救援し、靡角の谷で楚軍と遭遇したが、楚軍は晉の強さを畏れて退いた。
  • 晉の士魴が魯に援軍を求めた。季文子が臧武仲に兵の数を問うと、「かつて鄭を討った折には知伯(荀罃)が下軍の佐として出陣した。今回は彘季(士魴)も同じく下軍の佐である、鄭討伐の時と同様でよい。大国に仕えるには格式を違えず、敬意を加えるのが礼にかなう」と答え、これに従った。十二月、孟献子が虚朾で会し宋救援を謀った。宋は諸侯の軍そのものではなく、彭城を包囲するための軍を求めた。

魯襄公元年(前572年)

  • 春、宋の彭城を包囲し、彭城は晉に降った。晉は彭城にいた宋の五大夫(魚石・向為人・鱗朱・向帶・魚府)を捕らえて連れ帰り、瓠丘に留め置いた。