春秋左傳事類始末衛の孫寗の乱(衛孫寗之亂)

衛献公の即位当初から不吉が示され、孫文子は重器を戚に移して晉との誼を深める。師曹の讒言を機に孫文子・甯殖が反発し献公は斉へ出奔、公孫剽が擁立される。甯喜が父の遺命により献公を帰国させるが孫氏との内乱となり、免余が甯喜を誅殺、子鮮は出奔するなど、成公十四年から襄公二十八年に及ぶ衛の内乱の顛末を描く。

年表(8件)

魯成公十四年(前577年)

  • 衛の定公が病に伏し、孔成子と寗恵子に命じて敬姒の子・衎(のちの献公)を太子に立てさせた。定公が没すると、夫人姜氏は哭礼を終えて休む間、太子に悲しむ様子が見えないのを見て、酒を勧める儀にも応じず、「この者はきっと衛国を滅ぼすだけでなく、その禍は私自身から始まるだろう。天が衛国に禍いしているのだ。私には(別の子)鱄を立てて社稷を守らせることもできない」と嘆いた。これを聞いた大夫たちは皆恐れおののいた。以後、孫文子(林父)は衛の都に重器を置かず、すべて戚に移し、晉の大夫たちとの誼を篤くした。

魯襄公七年(前566年)

  • 衛の孫文子が魯を訪れて聘問した際、公が階を登ると孫文子も並んで登った。相役の叔孫穆子が進み出て、「諸侯の会で衛君が寡君に後れをとったことはない、それなのに貴殿は寡君に遅れずに進まれる。寡君に何か落ち度があったのだろうか、少し控えられよ」と諭したが、孫文子は弁明もせず、悔いる様子も見せなかった。穆叔は「孫子は必ず滅びるだろう。臣下でありながら過ちを犯し、それを改めようとしない、それが滅びの本である」と評し、「退食自公委蛇委蛇」の詩を引きつつ、道に外れて憚らなければ必ず折れると述べた。

魯襄公十四年(前559年)

  • 衛の献公は孫文子と寗恵子を食事に招くと約し、二人は正装して待ったが、日が暮れても呼ばれず、公は猟の冠のまま苑で雁を射ており、冠も脱がずに二人に語りかけた。二人は激怒し、孫文子は戚に退いた。
  • 息子の孫蒯が公に召されて酒を賜り、楽師に「巧言」の詩の終章(「無拳無勇、職として乱の階を為す」=力も勇もない者が乱のもとになる、の意)を歌わせようとした。楽師はこれを固辞したが、師曹が代わりを申し出た。師曹はかつて公の寵妾に琴を教えて鞭打たれた恨みから公を怒らせようとこれを歌った。蒯は恐れて父・文子に告げると、文子は「君は私を疑っている、先手を打たねば殺される」と述べ、一族を戚に移した。
  • 文子は蘧伯玉を訪ね、「君の暴虐はご存知の通り、社稷の傾くのを恐れている、どうすべきか」と問うたが、伯玉は「君がその国を治めるのに、臣下があえてそれに逆らってよいものか、逆らったところで良い結果になるとは限らない」と答え、近くの関から衛を去った。
  • 公は子蟜・子伯・子皮を遣わして丘宮で孫氏と盟わせたが、孫氏は三人を皆殺しにした。四月、公が鄄に行き、子行を孫氏に遣わしたが、これも殺された。公は斉へ出奔し、孫氏は追撃して阿澤で公の軍を破った。
  • この追撃戦で、尹公佗(庾公差の弟子)と庾公差(公孫丁の弟子)が公を追った。公の車を御していた公孫丁に子魚(庾公差)は「射れば師を裏切ることになり、射なければ我が身が罰せられる、礼を尽くしつつ射るべきか」と述べ、軛の両端だけを射て退いた。尹公佗は「そなたは師に義理立てしているが、私は師の師(公孫丁)とは縁が薄い」と述べて引き返し追撃を続けた。公孫丁は公に手綱を渡して自ら弓を取り、尹公佗の腕を射抜いた。子鮮が公に従って国境まで送り届けた。
  • 公は祝宗に、出奔したことのみを告げ罪はないと告げさせようとしたが、定姜は「神がいなければ告げる意味もないが、もし罪があるなら偽ることはできない。大臣を退けて小臣と謀ったのが第一の罪、先君が師傅と定めた重臣を蔑ろにしたのが第二の罪、先君に仕えた私を粗略に扱ったのが第三の罪である。出奔したことだけを告げ、罪はないなどと告げてはならない」と述べた。
  • 晉は厚成叔を衛へ遣わして弔問させ、「衛君が社稷を守れず他国に身を寄せていると聞いた、これでは弔わずにいられない。ただ同盟のよしみで内々に申し上げる」として、君主が弔われないのは民が救われないこと、臣下が務めを果たさないのに主君が赦さないのも、事態を悪化させるのではないかと問うた。衛は大叔儀を遣わして答えさせ、「臣らが不甲斐なく寡君に罪を得たが、寡君は刑罰を加えず悼み見捨てられた、それが君の憂いとなった。先君との誼を忘れず弔いに重ねて憂えていただいたこと、深く感謝する」と述べた。厚成叔は帰国して臧武仲に、「衛君はきっと帰国できるだろう、内には大叔儀が守り、外には異母弟の鱄が動いている、内外相俟って帰らぬはずがない」と語った。
  • 斉は郲の地で衛侯を寓居させ、のちに帰国する際にはその糧食を持ち帰らせた。従者の右宰穀は途中で衛侯から離れて帰国したため、衛人が処罰しようとしたが、「私は最初から誠意がなかった(狐裘に羔袖のようにちぐはぐだった)」と弁明し赦された。
  • 衛人は公孫剽を君主に立て、孫林父・甯殖が補佐して諸侯の指図を仰いだ。臧紇が斉を訪れて衛侯を弔問した際、衛侯は乱暴な言葉を語り、臧紇は退いて「衛侯はもう帰国できまい、その言葉は自らを塵芥のように貶め、亡命してもなお改まらない、どうして国に戻れようか」と評した。子展・子鮮はこれを聞き、臧孫と語り合った人々に、「衛君は必ず入国する、あの二人(臧紇の見立てと衛侯自身の動き)が引くにせよ推すにせよ、入国せずにはいられまい」と述べた。
  • 晉侯に侍していた楽師の師曠は、衛人が君主を追放したのはあまりに酷いのではと問われ、「あるいは君主自身が甚だしかったのかもしれません。良き君主は善を賞し淫を罰し、民を子のごとく養い、天のごとく覆い、地のごとく容れます。民は君を父母のごとく敬愛し、日月のごとく仰ぎ、神明のごとく敬い、雷霆のごとく畏れます、そのような君がどうして追放されましょうか」と答えた。師曠はさらに、天が民を生んで君を立てたのは民を治めさせるためであり、その本性を損なわせぬよう師傅を置いて度を越えぬようにする、天子に公、諸侯に卿、卿に側室、大夫に貳宗、士に朋友、庶人・工商・皂隷・牧圉に至るまで皆助け合う仲間があり、善は賞し過ちは正し、危機は救い失敗は改めると説き、史官は記録し、盲目の楽師は詩を作り、楽人は箴言を誦し、大夫は教え諭し、士は言葉を伝え、庶人は市井で誹り(商人が市に品を並べるのは時勢の好みを示すもの)、百工は技芸を献じると述べ、夏書に「遒人(巡行の官)が木鐸を鳴らして道を巡り、官も師も互いに規め、百工は技芸をもって諫める、それを正月孟春に行う」とあるのは常道を外れたことを諫めるためだと述べた。天が民を深く愛する以上、一人の人間だけが民の上に恣に振る舞い、その淫欲のままに天地が与えた民の本性を見捨てることを許すはずがない、と結んだ。
  • 晉侯が衛の事情について中行献子(荀偃)に問うと、「討伐するより今の状況を認めて安定させるべきです。衛にはすでに君主(公孫剽)が立っています。討っても志を得られず諸侯を疲れさせるだけです。史佚の言葉に『強い方に頼って懐柔せよ』とあり、仲虺の言葉にも『滅びゆく者は侮られ、乱れた者は取られる、滅びるものを推し進め存するものを固めるのが国の道である』とあります。衛の情勢を見定め、時を待つのがよいでしょう」と答えた。

魯襄公二十年(前553年)

  • 衛の甯恵子が病に伏し、子の悼子(甯喜)を呼んで「私は先君(献公)に罪を得た、悔いても及ばない。私の名は諸侯の記録に『孫林父・甯殖、君を追放す』と残るだろう。もし君が帰国できたなら、それを覆い隠せるようにせよ。できなければ、鬼神があろうとも私は飢えたまま食を受けまい」と告げた。悼子は承諾し、恵子は没した。

魯襄公二十五年(前548年)

  • 秋、衛の献公は夷儀に入った。冬、夷儀から甯喜に帰国の相談を持ちかけ、甯喜はこれを承諾した。大叔文子(大叔儀)はこれを聞き、「ああ、詩にいう『我が身すら安んじられぬのに、後のことなど構っていられようか』とは、まさに甯子のことだ。君子たる者は事の終わりや繰り返しを見据えて行うべきである。書に『始めを慎み終わりを敬えば、困窮せずに済む』とあり、詩にも『日夜怠らず一人(主君)に仕える』とある。今の甯子は君主の去就を碁よりも軽く扱っている。碁を打つ者ですら手を決めかねれば相手に勝てぬのに、まして君主の処遇を定めずに動くとはなおさらだ、必ず免れまい」と述べ、九代続いた卿の一族が一挙に滅びることを哀れんだ。

魯襄公二十六年(前547年)

  • 献公は子鮮に帰国の申し出を辞退するふりをさせようとしたが、母の敬姒が強く命じたため、子鮮は「君は信を守らぬ方、私は身の安全が保てぬのを恐れます」と答えつつも、「それでも母上のためです」と承諾し、公の命として甯喜に「もし政権を戻していただけるなら、政治はすべて甯氏に任せ、寡人は祭祀のみを司る」と伝えた。甯喜はこれを蘧伯玉に告げたが、伯玉は「私は君の出奔について何も聞いていない、その帰国についても関知しない」と述べ、近くの関から衛を去った。甯喜は右宰穀に相談すると、穀は「両君に罪を得ることになる、天下の誰がそのような者を支持しようか」と反対した。悼子(甯喜)は「亡父の遺命を受けた以上、二心は持てない」と述べた。穀は自ら使いに立って様子を探り、戻って「君(献公)は十二年も憂苦の中にありながら、心配する様子も寛大な言葉もなく、以前のままだ。このままでは早晩滅びよう」と報告した。悼子が「子鮮も関わっている」と言うと、穀は「子鮮が関わったところで何になろう、私を滅ぼせる者は多い、なぜ私に問うのか」と答えたが、悼子は「それでも今更やめられない」と押し切った。
  • 孫文子(林父)は戚に留まり、子の孫嘉は斉へ使いに出ており、孫襄が留守を守っていた。二月、甯喜と右宰穀は孫氏を攻めたが勝てず、伯国(孫襄)が傷を負った。甯子は郊外に退いて逃亡しようとしたが、伯国が死ぬと国人が甯子を呼び戻し、再び攻めて孫氏を破り、傀儡の君主・子叔(剽)と太子角を殺した。孫林父は戚の地とともに晉に降った。
  • 甲午の日、献公は帰国した。国境まで出迎えた大夫には手を取って親しく語りかけ、車で出迎えた者には会釈するだけ、門で出迎えた者にはうなずくだけであった。大叔文子には、自分が苦難の間中、他の者は皆消息を伝えてくれたのに、そなただけは一度も来なかった、「怨むべきでないことは怨むな、というが、私は怨んでいる」と咎めた。文子は「私は不甲斐なく、供をして苦難を分かつことができませんでした、それが第一の罪。国内に留まる者と国外に随行する者、両者の間の言葉を取り次いで君にお仕えすることもできませんでした、それが第二の罪。二つも罪を犯して死を忘れることなどできましょうか」と答え、近くの関から去った。
  • 衛人が孫氏の領地・戚の東の境を侵すと、孫氏は晉に訴えた。晉は孫氏のために諸侯を召集し衛を討とうとした。六月、公(魯襄公)は晉の趙武、宋の向戌、鄭の良霄、曹人と澶淵で会し衛を討つことを謀り、戚の田を境として衛の西の境・懿氏の六十邑を孫氏に与えることを決めた。晉は甯喜と北宮遺を捕らえ、衛侯が晉に赴くとこれも捕らえて士弱氏(晉の獄官)に幽閉した。
  • 秋、斉侯・鄭伯が衛侯のために晉を訪れると、晉侯は両者を饗応し、詩を賦し合った。国子(斉の使者)は叔向を通じ、晉君は諸侯に明徳を示し憂いを救い過ちを正すことで盟主となったはずなのに、なぜ君主を臣下として捕らえるのかと私かに問うた。叔向がこれを趙文子に伝え、文子が晉侯に告げると、晉侯は衛侯の罪を述べつつも叔向に両君への回答を託した。国子・子展がそれぞれ寛政を求める詩を賦すと、晉侯はついに衛侯の帰国を許した。叔向は「鄭の七穆のうち罕氏が最後まで存続するだろう、子展は倹しく徳が一貫している」と評した。冬、衛人は衛姫を晉に送り、晉は衛侯を釈放した。君子はこれによって晉の平公の失政を知ったという。

魯襄公二十七年(前546年)

  • 衛の甯喜が政を専らにするのを憂え、公孫免余が誅殺を願い出た。公は「甯子がいなければ私は帰国できなかった、彼には約束もした。事の成り行きはまだわからないから、汚名だけを残す結果になっては困る、控えよ」と答えた。免余は「私が殺します、君には関わらせません」と述べ、公孫無地・公孫臣と謀り甯氏を攻めたが失敗し、両名とも死んだ。公は「臣に罪はないのに父子とも死んだ、私のせいだ」と嘆いた。
  • 夏、免余は再び甯氏を攻め、甯喜と右宰穀を殺し、遺体を朝廷に晒した。宋との会盟に赴く命を受けていた石悪は、出発の途中で引き返し、穀の遺体に自らの衣を着せ、股に乗せて哭き、葬ろうとしたが、罪に問われることを恐れつつも「すでに命は受けている(あとで行けばよい)」と述べて出発した。
  • 子鮮は「私を追い出した者が今度は追い出され、私を呼び戻した者が今度は殺される。賞罰に一貫した基準がなければ、君主はどうして信を保ち、国はどうして秩序を保てようか。それに、そもそも私がこの事を起こした張本人だ」と述べ、晉へ出奔した。公は幾度も引き止めようとしたが、子鮮は使者を退けて黄河のほとりで誓いを立て、木門(晉の邑)に身を寄せ、衛の方角を向いて座ることさえしなかった。木門の大夫が仕官を勧めても、「仕えればここを去った理由を自ら覆すことになる、それは罪だ」と拒み、生涯仕官しなかった。公は子鮮のために近親者のように喪に服し続けた。
  • 公は免余に六十邑を与えようとしたが、免余は「卿だけが百邑を持てるもの、私は臣下でしかないのに六十邑では、下位の者が上位の禄を得ることになり、秩序が乱れます」と辞退した。それでも甯氏が邑を多く持ちすぎたために滅びたことを思えば、同じ禍を恐れると述べた。公はなお強く与え、免余はその半分を受けた。公は免余を卿(少師)に任じようとしたが、免余は「大叔儀こそ二心なく大事を助けられる人物、その方に命じられよ」と固辞し、公は大叔文子(儀)を卿に任じた。

魯襄公二十八年(前545年)

  • 衛は甯氏の残党を討ち、石悪は晉へ出奔した。衛は石悪の甥を立てて石氏の祭祀を存続させた。礼にかなうことであった。