春秋左傳事類始末曹の負芻、太子を殺し自立する(曹負芻殺太子自立)

曹の宣公没後、公子負芻が太子を殺して自立する。諸侯は成公(負芻)を討ち捕らえて子臧を君に立てようとするが、子臧は節義を理由に辞退して出奔し、後に晉の仲介で成公も子臧も曹に帰った。

年表(3件)

魯成公十三年(前578年)

  • 麻隧の役の折、曹の宣公が陣中で没した。曹人は公子負芻に留守を守らせ、公子欣時を遣わして宣公の喪を迎えさせた。秋、負芻は太子を殺して自ら君主の座についた。諸侯はこれを討とうとしたが、晉は出兵の疲れを理由に他日を待つよう求めた。冬、宣公を葬った。子臧(欣時)は国を去ろうとし、国人もこれに従おうとしたが、成公(負芻)は恐れて罪を告白し留任を請うたため、子臧は帰って邑を返上した。

魯成公十五年(前576年)

  • 春、戚で会盟し曹成公を討つことが決められ、成公は捕らえられて京師に送られた。諸侯は子臧を王に会わせて君主に立てようとしたが、子臧は「聖人は節義を貫き、次の者は節義を守り、劣る者は節義を失う。君となるのは私の節義ではない。聖人にはなれずとも、せめて節義だけは守りたい」と辞退し、宋へ出奔した。

魯成公十六年(前575年)

  • 曹人は晉に、先君宣公の死以来国が乱れているところへ、さらに君主(成公)を討って国の要である公子(子臧)を失えば曹は滅びかねないと訴え、先君に罪があったとしても、諸侯の会に列していた以上晉が徳と刑をもって諸侯の覇たろうとするなら、曹だけを見捨てないでほしいと請うた。秋、晉侯は子臧に「君主を帰す代わりにそなたも帰るように」と告げ、子臧は曹に帰り、曹伯(成公)も帰国を許された。