春秋左傳事類始末楚、莒を伐ち莒備え無く潰ゆ(楚伐莒莒無備而潰)
申公巫臣が莒の渠丘公に城の傷みを指摘して備えを促すが、莒子は辺鄙を恃んで油断する。楚の子重の攻撃を受け、渠丘・莒とも城が崩れて総崩れとなり、君子は備えを怠った罪を厳しく評した。
年表(2件)
- 魯成公七年前584年申公巫臣が莒の城の傷みを指摘するが莒子は油断する
- 魯成公九年前582年楚が莒を攻め備えのない渠丘・莒が相次いで陥落する
魯成公七年(前584年)
- 晉侯が申公巫臣を呉へ遣わした際、莒国に道を借りた。巫臣は莒の渠丘公と共に城壁を眺め、「城が傷んでいる」と指摘した。莒子は「辺鄙な夷の地にいるのに、誰が我が国を狙うというのか」と応じたが、巫臣は「他国の領土を狙う者はいずこにもいる、油断せず備えるべきだ」と諭した。
魯成公九年(前582年)
- 冬、楚の子重が莒を攻め、渠丘を囲んだ。渠丘の城は傷んでおり守兵は総崩れとなって莒へ逃げ込んだ。楚軍はさらに莒を包囲したが、莒の城も傷んでおり、こちらも崩れた。楚は無防備な鄆に入った。
史論(君子)
- 城の傷みを侮って備えを怠ったことこそ最大の罪であり、備えて不慮に至らぬことこそ最大の善である、と評した。莒はその辺鄙さに頼って城郭を修めず、わずか十二日ほどの間に楚に三つの城を落とされた。これは備えのなさによるものであり、「絲麻ありといえど菅蒯を棄つるなかれ、姫姜ありといえど蕉萃を棄つるなかれ」との詩を引き、君子たる者は乏しきに備えぬことはないと結んだ。