春秋左傳事類始末宋の華元、晋楚の和を合す(宋華元合晉楚之成)

楚に捕らわれた鍾儀の礼儀正しさをきっかけに晉楚和議の機運が生まれ、宋の華元の周旋で晉楚は宋の西門外で盟約する。しかし盟約は長続きせず、楚は鄭を得て晉と鄢陵で激突、晉が大勝して楚王が矢傷を負い子反は自ら命を絶つ。戦後、晉では厲公が三卻氏を誅殺し、欒書・中行偃により弑逆され悼公が立つまでを描く。

年表(9件)

魯成公七年(前584年)

  • 楚の子重が鄭を攻めた。鄭は共仲侯羽に軍を率いさせて応戦したが、楚軍は鄖公の鍾儀を捕らえ、晉へ献じた。晉は鍾儀を軍の武器庫に幽閉した。

魯成公九年(前582年)

  • 晉侯が軍の武器庫を視察した際、南方の冠をつけて繋がれた鍾儀を見て問うと、鄭が献じた楚の捕虜だと知らされた。晉侯は縄を解かせて労い、家系や職掌を尋ねると、鍾儀は先祖代々の楽官の職を明かし、望まれて琴を弾き南方の音楽を奏でた。楚王の人柄を問われても「小人の知るところではない」と答え、太子の頃の師傅について語るのみで多くを語らなかった。
  • 晉侯がこれを范文子(士燮)に話すと、文子は「鍾儀は君子である。先祖の職を語るのは本を忘れぬこと、郷土の音楽を奏でるのは旧を忘れぬこと、太子について語り私事に及ばぬのは公正、二卿の名を挙げ敬うのは君を尊ぶこと」と評し、仁・信・忠・敏を兼ね備えた人物だから帰国させて晉楚の和議を結ばせるべきだと進言した。晉侯はこれに従い、厚く礼遇して鍾儀を楚へ帰し、和議を求めさせた。
  • 冬、楚は公子辰を晉に遣わし、鍾儀の使いに応えて友好を修め和議を結ぶことを求めた。

魯成公十年(前581年)

  • 晉侯は糴茷を楚に遣わし、楚の太宰子商の使いに応えさせた。

魯成公十一年(前580年)

  • 宋の華元は楚の令尹子重、晉の欒武子の双方と親しかった。楚が糴茷の和議申し入れを既に承諾したと聞き、華元自ら楚へ赴き、続いて晉へも赴いて、晉楚の和議を取りまとめた。

魯成公十二年(前579年)

  • 華元の周旋により晉楚の和議が成った。夏五月、晉の士燮と楚の公子罷・許偃が宋の西門外で盟約し、互いに戦を交えず好悪を共にし、災難を助け合い、道路の往来を妨げないこと、協調しない者を共に討つことなどを誓った。
  • 晉の卻至が楚を訪ね、盟約に立ち会った。楚王が饗応し、子反が地下に楽room(地室)を設けて鐘を吊るしたが、卻至は金の音楽が奏でられると驚いて退出した。子反が入るよう促すと、卻至は「両国が交わりを結ぶのに矢を交えるほどの礼を尽くしていただくとは畏れ多い」と辞退した。子反が「両君が相見えるなら矢を一本交わす程度で十分、音楽など無用」と応じると、卻至は、諸侯が天子に仕える折に朝見・饗宴の礼を行うのは共儉・慈恵を示すためであり、乱世になると諸侯は民の武力を私物化してしまうと説き、「今のお言葉は乱世の道であって法とはできない」と論じつつも、事を収めて盟約を終えた。
  • 卻至は帰国してこれを范文子に語ると、文子は「礼を失えば必ず約束を破る、私の死も遠くない」と嘆いた。
  • 楚の公子罷も晉を訪れて盟を結び、晉侯と公子罷は赤棘で盟約した。

魯成公十五年(前576年)

  • 楚が北方への出兵を図った際、子囊は「晉と盟約したばかりで背くのはよくない」と諫めたが、子反は「利があれば進むまで、盟約など問題ではない」と答えた。申(申邑)にいた老臣申叔時はこれを聞き、「子反は必ず禍を免れまい。信によって礼を守り、礼によって身を守るもの。信も礼も失ってどうして無事でいられようか」と評した。
  • 楚は鄭を侵し、続いて衛を侵した。晉の欒武子は楚に報復しようとしたが、韓献子は「その必要はない。放っておけば楚は罪を重ね、民に見放されよう。民のない国とどう戦うのか」と諫めた。

魯成公十六年(前575年)

  • 楚王は武城から公子成を遣わし、汝陰の地を差し出して鄭との和議を求め、鄭の子駟は楚王と武城で盟約した。
  • 夏、鄭の子罕が宋を攻めた。宋の将鉏樂懼はこれを汋陂で破ったが、勝ちに乗じて夫渠に退いて油断していたところ、鄭軍の伏兵に汋陵で破られ、鉏樂懼は捕らえられた。
  • 晉侯は鄭を討とうとした。范文子は「これが叶えば諸侯はみな晉に叛くだろう、鄭だけが叛くのなら憂いは軽い」と反対したが、欒武子は「我が世に諸侯を失うわけにはいかない、必ず鄭を討つべきだ」と主張し、出兵が決まった。欒書が中軍、士燮が佐、卻錡が上軍、荀偃が佐、韓厥が下軍、卻至が新軍佐、荀罃が留守を務めた。
  • 鄭は晉の出兵を楚に告げ、楚王は救援に向かった。子反は申叔時に戦の見通しを尋ね、申叔時は徳・刑・義・礼・信こそ戦の要であり、楚は民をないがしろにし盟約を軽んじ農時を乱して兵を動かしていると指摘し、「その罪は明らかだ、努めよ、もう会えぬだろう」と告げた。
  • 先に帰った姚句耳は子駟に、楚軍の行軍は速いが険しい地を過ぎても整わず、隊列も志気も失われており、この状態では戦えまいと報告した。
  • 五月、晉軍が黄河を渡り楚軍接近を聞くと、范文子は撤退を主張したが欒武子は聞き入れなかった。六月、晉楚両軍は鄢陵で対峙した。范文子は開戦に消極的で、過去の韓・箕・邲の敗戦の恥を挙げたが、卻至は秦・狄・斉・楚がかつて強大だったが今や楚のみが強敵であり、外に脅威を残してこそ内が治まると反論し、開戦論が通った。
  • 甲午の晦日、楚軍が朝から陣に迫った。晉の軍吏が動揺すると、范匄は井戸を埋め竈を崩して陣中に布陣し、陣前に通路を開くことを進言したが、范文子は「国の存亡は天が決めることだ、子供の考えることではない」と叱った。欒書は楚軍が軽率だから守りを固めて三日待てば必ず退くと説き、卻至は楚軍に六つの隙(両卿の不和、王の親衛軍が旧式、鄭軍の乱れ、蛮軍の不整、忌み日の布陣、騒がしく統率を欠く様子)があると指摘し、攻撃を主張した。
  • 子重は太宰伯州犁を王のそばに侍らせ、これを見た晉侯の側近たちは互いに「国士がついている、侮れない」と語り合った。晉に降っていた苗賁皇は晉侯に、楚の精鋭は中軍の王族のみと見抜き、精鋭を分けて楚の左右軍を撃ち、三軍を王の親衛軍に集中させれば大勝できると進言した。占いでは復卦(震下坤上)が出て、「南国は圧迫され、その王の目に矢が中たる」との卦辞が下され、王は傷を負うが国は滅びないと判断された。晉侯はこの策に従った。
  • 戦場に泥沼があり両軍の戦車が乱れ、晉厲公の車も泥にはまった。欒鍼は欒書自らが引き上げようとするのを、職分を越え将の任を怠るものだと諫め、自ら公の車を泥から引き上げた。
  • 楚の養由基は甲七枚を貫く弓の技を王に披露したが、王は「国の恥だ、明日死んでも文句は言うな」と怒った。晉の吕錡は月に矢を射て泥に退く夢を見、姫姓の敵に中てられると占われたが、実際には楚王の目を射抜き、その後楚王が命じた養由基の矢に射られて戦死した。楚軍が険地に迫った際、叔山冉は「王命は一矢のみでも国のためだ」と養由基に重ねて射させ二人を倒し、自らも敵兵を車に投げつけて撃退した。
  • 欒鍼は子重の旗を見て、かつて使者として楚を訪れた際、子重に晉の勇士について問われ「衆を整えることに長け、また余裕を持って事に当たる」と答えたことを思い出し、今の戦の場でも礼を尽くそうと酒を子重に届けさせた。子重はその故事を思い出して酒を受け、使者を無事に帰した。
  • 夜、双方とも翌日の戦に備え、子反は軍吏に負傷者の手当てと武具の修理を命じた。晉は苗賁皇に命じて援軍が来たと偽情報を流させ、楚の捕虜をわざと逃がして動揺を誘った。楚王がこれを聞き子反と謀ろうとしたが、子反は従者の穀陽豎に飲まされた酒で酔い、王に会えなかった。王は「天が楚を敗れさせるのだ、待てぬ」と夜のうちに退却した。晉軍は楚の陣に入り三日にわたり楚の兵糧を食した。
  • 范文子は戦馬の前に立ち、「君は若く、我ら家臣も未熟なのに、なぜここまで勝てたのか。君はこれを戒めとすべきだ」と述べ、周書の「天命は一定ではなく、徳ある者につく」との言葉を引いた。
  • 楚軍が瑕まで戻ると、王は子反に「先の敗戦は王が不在の折のこと、そなたの過ちではない」と伝えたが、子反は「君が死を賜るなら、死しても朽ちぬ思いだ。兵の敗走はまさに私の罪である」と述べて自ら命を絶った。王は止めようとしたが間に合わなかった。

魯成公十七年(前574年)

  • 鄢陵から帰った范文子は、祝官に自らの早死を祈らせ、「君は驕り高ぶりながら敵に勝った。これは天が君の驕りを増長させたということで、いずれ災いが起こる。私を愛する者は、私が早く死んで難に遭わぬよう祈ってほしい、それが范氏の幸いだ」と語った。六月戊辰、士燮(范文子)は世を去った。
  • 晉厲公は驕奢で寵臣が多く、鄢陵から帰ると大夫たちを排除して側近を取り立てようとした。胥童は「まず三卻氏を除くべきだ、名門で怨みも多く、除けば他の大族への圧力も減り、怨みを買う相手が多い方が事は成りやすい」と進言し、厲公は同意した。
  • 十二月壬午、長魚矯と清沸魋が武器を隠し訴訟を装って三卻氏(駒伯・苦成叔・温季)を討ち、駒伯と苦成叔を殺し、温季は逃げたが車で追いつかれた。胥童は兵を率いて欒書と中行偃を朝廷で捕らえ、長魚矯は「この二人を殺さねば君に禍が及ぶ」と進言したが、厲公は「一朝で三卿の屍を晒したのだ、これ以上は忍びない」と拒んだ。長魚矯は徳と刑の道理を説き、姦を許して討たぬのは刑にあらずと諫めたが、聞き入れられず自ら狄へ出奔した。
  • 厲公は欒書・中行偃に、罪を許して死を免じたことを伝えさせ、二人は拝謝し帰参した。厲公は胥童を卿に取り立てた。厲公が匠麗氏のもとに遊びに出た際、欒書と中行偃は厲公を捕らえ、士匄・韓厥を召して協力を求めたが、士匄は辞退し、韓厥もかつて趙氏討伐で讒言に与せず兵を退いた故事を挙げ、「古人も老牛でさえ殺すに忍びぬというのに、まして君を弑せようか。そなたらにできぬなら私を頼るまでもない」と断った。

魯成公十八年(前573年)

  • 春、欒書と中行偃は程滑に命じて厲公を弑し、翼の東門外に車一台のみで葬った。荀罃・士魴を周に遣わして周子(悼公)を迎え、これを新たな晉侯に立てた。