春秋左傳事類始末呉、郯を伐つ(吳伐郯)
呉が郯を攻めて降し、季文子は中原諸国が備えを怠っていることを憂え、魯もいずれ滅びかねないと嘆く。翌年、晉の要求により魯は郯の呉服属を理由に討伐に踏み切った。
年表(2件)
- 魯成公七年(前584年)呉が郯を降し季文子が中原の無策を憂える
- 魯成公八年(前583年)晉の要求で魯が郯を討伐する
魯成公七年(前584年)
- 呉が郯を攻め、郯は呉に降った。季文子は「中原諸国が軍備を振るわぬうちに蛮夷が攻め込んでも誰も助けようとしない。これでは天に見捨てられたも同然だ。『詩経』に『天は憐れまず、乱はいつまでも定まらない』とあるのはまさにこのことだ。上に立つ者が民を憐れまなければ、いったい誰が乱を受け止めよう。我が国も遠からず滅びるかもしれぬ」と嘆いた。君子はこれを評し、「このように懼れを知っていれば、滅びることはあるまい」と述べた。
魯成公八年(前583年)
- 晋の士燮が魯を訪れ、郯を討つよう求めた。郯が呉に服属したことを理由とするものだった。魯公は賄賂を贈って出兵の猶予を願おうとしたが、士燮は「君命に二心はあり得ない。信を失えば立ち行かず、礼を欠いて賄賂を重ねても事は二重に成就しない。主君(晋侯)の命に背けば、わが君(晋侯)に仕えられなくなる」と拒んだ。士燮が帰国してこの経緯を復命しようとしたため、季孫は恐れて宣伯に軍を率いさせ郯を討伐させた。