春秋左傳事類始末晋楚、宋鄭を救う(晉楚救宋鄭)

許と鄭の境界争いを発端に晉と楚が双方を後援して介入し、鄭は敗訴して晉に接近する。晉は撤兵を諫める知莊子・范文子・韓獻子の意見に従い無用な深入りを避けたが、後にその判断が蔡・楚への勝利につながった。

年表(5件)

魯成公三年(前588年)

  • 許は楚を恃んで鄭に服さなかったため、鄭の子良が許を攻めた。

魯成公四年(前587年)

  • 鄭の公孫申が軍を率いて許の田を侵し境界を広げた。晋の欒書は中軍を率い荀首がこれを補佐、士爕が上軍を補佐して許を救援し鄭を討った。楚の子反は鄭を救援した。
  • 鄭伯と許男は境界問題を楚に訴え、皇戍が鄭伯の代弁をしたが、子反は裁定できなかった。

魯成公五年(前586年)

  • 許の霊公が鄭伯を楚に訴えた。六月、鄭の悼公が自ら楚に赴いて訴訟したが敗訴し、楚人は皇戍と子国を捕らえた。鄭伯は帰国し、八月、晋の趙同と垂棘で盟約した。

魯成公六年(前585年)

  • 鄭伯が晋に赴き和議を謝した際、子游が礼を取り仕切ったが、玉を授ける場所が本来定めの位置(両楹の間)より東にずれてしまった。士貞伯はこれを見て「鄭伯はまもなく死ぬのではないか。自ら儀礼をおろそかにし、視線も定まらず歩みも速すぎる。落ち着きがなく、長くは持つまい」と評した。果たして六月、鄭の悼公は薨去した。
  • 楚の子重が鄭を攻め、晋の欒書がこれを救援すると楚軍は退いた。晋軍はそのまま蔡へ侵攻したが、楚の公子申・公子成が申・息の兵を率いて蔡を救援し、桑隧で迎え撃った。
  • 趙同・趙括は交戦を望み欒武子(欒書)に許可を求めた。武子は許そうとしたが、知莊子・范文子・韓獻子は「いけません。我々は鄭を救うために来たのに、楚軍が去った途端ここまで深入りするのは、戦うべき場所を移しただけの無用な殺戮です。戦って勝てなければ辱めが甚だしく、たとえ勝っても軍を整えて出陣したのに楚の二県を破っただけでは大した誉れにもなりません」と諫めた。
  • それでも交戦を望む将は多く、ある者が欒武子に「聖人は衆と欲を同じくすることで事を成す。あなたも衆に従ってはどうか。あなたの佐官11人のうち戦いたくない者は3人だけで、望む者の方が多い」と勧めたが、武子は「善は衆の主である。今、諫めた知莊子・范文子・韓獻子の三卿こそ善に基づいており、これも十分『衆』と言える。彼らに従うのが道理だ」と応じ、撤兵した。

魯成公八年(前583年)

  • 晋の欒書は蔡へ侵攻し、さらに楚へ侵入して申驪を捕らえた。これは楚軍が退いた(成公六年の)戦役の延長であった。晋はまた沈へ侵攻し、沈子揖を捕らえた。これは当初、知莊子・范文子・韓獻子の進言に従った延長線上の成果だった。
  • 君子はこれを評し、「善に従うこと流水の如し、とはまさにこのことだ。『詩経』に『和楽な君子は人材を育てる』とあるのは、善き人材を求めることを言う。人材を育ててこそ功績が生まれる」と述べた。