春秋左傳事類始末申公巫臣、呉を上国に通わす(申公巫臣通吳于上國)

申公巫臣は楚荘王・子反が夏姫を娶ろうとするのを諫めて退けながら、自らは夏姫を連れて晉へ出奔する。恨みを買った巫臣は子重・子反への復讐として呉に使者となり、戦車・弓術・対楚戦術を教えて呉を強国に育て上げ、中原と呉との通交の端緒を開いた。

年表(5件)

魯成公二年(前589年)

  • 楚が陳の夏氏を討伐した際、荘王は美貌で知られる夏姫を後宮に迎えようとした。申公巫臣は「王は諸侯を集めて罪を討ったのに、ここで夏姫の色香を貪れば、それは淫らな振る舞い。淫は大罰を招く。『周書』にも『徳を明らかにし刑罰を慎む』とあり、これこそ周が興った所以である。諸侯を動員した末に大罰を招くのは慎みに反する」と諫め、王はこれを断念した。
  • 子反(公子側)が夏姫を娶ろうとすると、巫臣は「この女は不吉な人物だ。子蠻(夏姫の兄)を早死にさせ、夫の御叔を死なせ、陳の霊侯を弑逆させ、夏南(夏徴舒)を誅殺に追い込み、孔寧・儀行父を国外逃亡させ、ついには陳国を滅亡寸前に追い込んだ。これほどの不吉な女はいない。人の一生は短いのに、彼女に関わった者はまともな死を迎えられないだろう」と説き、子反も断念した。
  • 荘王は夏姫を連尹・襄老に与えたが、襄老は邲の戦いで戦死し遺体も見つからなかった。巫臣はひそかに夏姫に「(鄭に)帰れば私が娶ろう」と持ちかけ、鄭から彼女を呼び寄せ「遺体は見つかる、必ず迎えに来い」と伝えさせた。王は夏姫を帰らせ、巫臣は鄭に使いして鄭伯の許しを得た。
  • その後、共王が即位して陽橋への出兵を計画した際、巫臣は斉への使者と出師の日程を告げる役を志願し、一族を挙げて出発した。申叔跪は父に従って郢へ向かう途中、巫臣一行に出会い「奇妙なことだ。あの方は三軍の戦を控えていながら、こっそり色事の喜びに浸っている。妻を盗んで逃げるつもりだろう」と評した。
  • 果たして巫臣は鄭からの使者に返礼の品だけを託し、自らは夏姫を連れて晋へ出奔し、卻至の口利きで晋に仕えることになった。晋は巫臣を邢の大夫とした。
  • 子反は多額の賄賂を贈って巫臣を他国に仕官できぬよう禁固にしようとしたが、王は「巫臣が自分の利のために謀ったのなら誤りだが、先君(荘王)のために夏姫を娶らせまいとしたのなら忠義であり、社稷を安泰にした功も多い。もし晋のために役立つ人物であれば、たとえ賄賂を贈っても晋は動くまい。晋の益にならなければ晋自ら見限るだろう。わざわざ禁固にする必要はない」と退けた。

魯成公七年(前584年)

  • かつて楚が宋を包囲した戦役(魯宣公十四年)の後、軍を引き上げる際に子重は申・呂の地を自分の賞田として求め、王はこれを許そうとした。申公巫臣は「いけません。申・呂はもともと国境防備のための邑であり、その税で北方(晋・鄭方面)に備えているのです。これを取り上げれば申・呂は実質的に無くなり、晋・鄭の軍が漢水にまで及ぶでしょう」と諫め、王は取りやめた。子重はこれを恨みに思った。
  • また、子反が夏姫を娶ろうとしたのを巫臣に阻まれたうえ、巫臣自身が夏姫を娶って出奔したことで、子反もまた巫臣を恨んだ。共王が即位すると、子重・子反は巫臣の一族を殺し、その財産を分け合った。
  • 巫臣は晋から二人に書を送り、「お前たちは讒言と貪欲によって主君に仕え、多くの無実の者を殺した。私は必ずお前たちを東奔西走させ、疲れ果てさせて死なせてやる」と告げた。そして晋侯に願い出て呉への使者となった。
  • 呉子・寿夢は巫臣を喜んで迎え、これにより呉と晋の関係が開かれた。巫臣は自らの兵の一部を呉に残し、弓術・戦車の操縦・陣立て・楚への反逆の仕方を教え込んだ。また息子の狐庸を呉に残して外交官とした。
  • 呉はこうして楚を攻め始め、巣・徐を攻めた。子重は馬陵の会合中に急ぎ出兵を強いられ、呉が州来に侵入すると子重は鄭から呼び戻された。子重・子反は一年のうちに七度も緊急出兵を強いられた。楚に属していた蛮夷の諸族は次々と呉に帰属し、呉はこうして中原諸国と広く通交する大国となった。

魯成公八年(前583年)

  • 晋侯は申公巫臣を呉へ遣わした。

魯成公九年(前582年)

  • 晋人は蒲で会合し、初めて呉を交えようとしたが、呉人は来なかった。

魯成公十五年(前576年)

  • 鍾離で呉と会合し、ここに正式に呉との通交が始まった。