春秋左傳事類始末魯、東門氏を逐う(魯逐東門氏)
公孫歸父(子家)は晏桓子に将来の滅亡を予言されるほど魯で野心を抱き、三桓を排して公室の権威を高めようと宣公と謀るが、宣公薨去を機に季文子・臧宣叔により東門氏は追放され、歸父は晉からの帰途で斉へ亡命した。
年表(2件)
- 魯宣公十四年(前595年)晏桓子が公孫歸父の野心を評し将来の滅亡を予言する
- 魯宣公十八年(前591年)宣公薨去を機に東門氏が追放され公孫歸父が斉へ亡命する
魯宣公十四年(前595年)
- 公孫歸父が穀で斉の頃公と会見した際、晏桓子と魯の政治について話した。晏桓子はこれを高宣子に語り、「子家(公孫歸父)はいずれ滅ぶだろう。魯への野心を抱いている。野心があれば貪欲になり、貪欲になれば人を陥れようと謀る。謀られた者もまた彼を謀り返すから、国じゅうが彼を謀れば滅びないはずがない」と評した。
魯宣公十八年(前591年)
- もとより公孫歸父は、東門襄仲が公(宣公)を擁立した縁で寵愛を受けており、三桓(季孫・叔孫・孟孫の三氏)を排除して公室の権威を高めようと宣公と謀っていた。歸父が晋へ使いに出て晋の力を借りて三桓を除こうとしていた矢先、冬に宣公が薨去した。
- 季文子は朝廷で「嫡子を殺して庶子(宣公)を立て、大国の後ろ盾を失わせたのは東門襄仲だ」と論じた。臧宣叔は怒って「その当時は誰も処断できなかったのに、後の子孫に何の罪があるのか」と反論しつつも、歸父を除くことを許した。
- 結局、東門氏(歸父の一族)は追放された。歸父は晋からの帰途、笙の地の壇の陣幕まで戻ったところで副使から報告を受け、喪服の作法に則り片肌を脱ぎ髪を括り、定められた位置に立って三度哭し踊るという喪礼を行い、その足で斉へ亡命した。