春秋左傳事類始末晋、霊公を立て士会を復帰させる(晉立靈公復士會)

晋の襄公没後、趙盾が秦にいる公子雍の擁立を進めたが、太子の母穆嬴の訴えに動かされて霊公擁立に転じ、秦の護送軍を令狐で急襲した。亡命した先蔑・士会のうち、士会は魏寿餘の偽計により晋へ帰還させられる。文公六年から宣公元年までの晋の後継争いと秦晋の攻防を描く。

年表(5件)

文公六年(前621年)

  • 季文子は晋への聘問に先立ち、喪に遭った際の礼を調べさせた。従者が「そんなもの使う機会があるのか」と問うと、季文子は「備えあれば憂いなし。求めておいて要らなければそれでよいが、求めずに必要になれば困る」と答えた。
  • 8月、晋の襄公が没した。太子(のちの霊公)が幼かったため、晋人は年長の君主を立てようとした。趙盾(趙孟)は「公子雍を立てるべきだ。善良で年長、先君にも愛され、秦とも旧誼がある。善人を立てれば国が安定し、年長者を立てれば人心が従い、愛された者を立てれば孝が行われ、旧好を結べば安泰になる。この四つの徳を備えた者を立てれば難局も必ず打開できる」と主張した。
  • 賈季は「公子楽を立てるべきだ。その母辰嬴は二君に寵愛され、その子を立てれば民は安んじる」と反論したが、趙盾は「辰嬴は身分低く二君に嫁いだにすぎず、公子楽も小国の陳に逃れていて援けが得られない。母が卑しく子も僻遠では威が立たない」と退けた。
  • 文公の夫人杜祁はかつて偪姞に自らの席次を譲り、狄出身の季隗にも次席を譲った経緯があり、先君はその譲りゆえに杜祁の子(雍)を愛し秦へ仕えさせ亜卿とした。秦は大国で近く後ろ盾になり得るとされ、公子雍の擁立が決まった。
  • 晋は先蔑・士会を秦へ遣わして公子雍を迎えさせ、賈季も別に公子楽を陳へ迎えに人を送ったが、趙盾は使者を郫で殺させた。

文公七年(前620年)

  • 秦の康公は公子雍を晋へ送る際、「文公(重耳)が晋に入った時に護衛がなかったために呂・郤の変が起きた」と述べ、多くの護衛を付けた。
  • 晋では穆嬴(霊公の母)が幼い太子を抱いて朝廷で泣き、「先君に何の罪があって嗣子を退け外に君主を求めるのか」と趙盾らに迫った。趙盾邸にも赴いて頓首し、先君の遺言を訴えた。
  • 趙盾ら大夫は穆嬴を憐れみ、また秦の勢いを恐れて、公子雍の擁立をやめて霊公を立て、秦軍を迎え撃つことにした。
  • 堇陰に至り、趙盾は「秦の申し出を受ければ賓客として遇すべきだが、受けないなら敵とみなされる。受けずに手を緩めれば秦に付け入られる。敵の心が定まらぬうちに討つのが軍の善謀であり、逃げる敵は追い、油断させず討つのが善政である」と述べ、夜襲をかけて秦軍を令狐で破った。
  • 先蔑は秦へ亡命し、士会もこれに従った。先蔑が出発する際、荀林父は「夫人も太子もいるのに外に君主を求めるのは無理筋だ。病と称して断るべきだ」と諫めたが聞き入れられず、詩「板」の一節を賦して重ねて諫めても従わなかった。先蔑が去った後、荀林父はその妻子・財貨をすべて秦へ送り届け、「かつての同僚のよしみである」と述べた。

文公十二年(前615年)

  • 秦伯は西乞術を晋へ遣わして聘問させ、あわせて晋を伐つ意志を伝えさせた。魯の襄仲(公子遂)は秦の贈った宝器の受け取りを辞退したが、秦の使者は「両国の誼を結ぶための贈り物であり、辞退には及ばない」と述べ、三度の遣り取りの末に受け取った。襄仲は「秦に立派な人物がいる、侮れない国だ」と評し、厚く報いた。
  • 令狐の戦いの報復として秦伯は晋を伐ち、羈馬を奪った。晋は趙盾を中軍将、荀林父を佐、卻缺を上軍将、㬰駢を佐、欒盾を下軍将、胥甲を佐とし、范無恤を御者として河曲で秦軍に対峙した。
  • 㬰駢は「秦軍は長く持久できないので、塁を深くして持久すればよい」と進言し、これに従った。
  • 秦伯が士会に晋軍の出方を尋ねると、士会は「趙氏の一族で側室(庶子)の趙穿は、晋君の婿で寵愛されているが未熟で血気にはやる性質であり、㬰駢が自分より上位にあることを快く思っていない。手薄な部隊を見せれば挑発に乗るはずだ」と答えた。秦伯は璧を沈めて河神に戦勝を祈った。
  • 12月、秦軍が晋の上軍を襲うと、趙穿は追撃したが及ばず怒り、「兵糧を用意し甲を纏いながら、敵が来ても討たないのでは何を待つのか」と言い、軍吏に「機を待っている」と諭されても聞かず、独断で自軍を出した。趙盾は「秦が趙穿を得れば一卿を得たに等しい、秦に勝ちを譲るわけにはいかない」と全軍を出撃させたが、両軍は交戦せずに退いた。
  • 秦の使者が夜、晋軍に「両軍ともまだ決着がついていない、明日また相まみえよう」と伝えたが、㬰駢は「使者の目が泳ぎ言葉が大仰なのは我々を恐れているからだ、秦軍は退却するに違いない、河で挟撃すべきだ」と進言した。ところが胥甲・趙穿が軍門で「死傷者もまだ収容していないのに見捨てるのは不仁義、約束の期日も待たず険しい所で迫るのは不勇である」と叫んで反対したため、追撃は中止された。秦軍は夜のうちに退き、晋の瑕を侵した。

文公十三年(前614年)

  • 晋人は秦が士会を用いていることを憂い、六卿が諸浮で会議した。趙盾は「士会は秦にあり賈季は狄にある、いずれ災いが及ぶだろう」と述べ、中行桓子(荀林父)は賈季を呼び戻すことを提案したが、卻成子(卻缺)は「賈季は乱を起こし罪が重い、それより士会の方が身分は低いが恥を知り穏やかで人に逆らわず知恵も十分で、しかも罪もない」と反論した。
  • 晋は魏寿餘に偽って魏で叛乱を起こしたふりをさせて秦を誘い、士会の妻子を捕らえて夜逃がし秦へ帰順させると見せかけて秦伯の信を得た。秦伯は魏寿餘の言葉に従い士会を東へ派遣しようとしたが、士会は「晋人は虎狼のようなもの、もし約束を違えれば私は死に妻子も殺されよう」と辞退した。秦伯は「もし約束を違えれば汝の妻子を帰さない、黄河に誓う」と述べて士会を行かせた。
  • 士会が渡河する際、繞朝は策(むち)を贈って「秦に人物がいないと思うな、私の計略がたまたま用いられなかっただけだ」と告げた。魏の人々が渡河し終えて騒ぎ立てて引き返すと、士会は晋に帰り着き、秦は残された士会の妻子を晋に送り返した。晋に残った者は劉氏と名乗った(劉累の後裔が本来の姓に復したものという)。

宣公元年(前608年)

  • 晋は命令に従わなかった者を処罰し、胥甲父を衛に追放した。