春秋左傳事類始末襄仲、宣公を立てる(二)(襄仲立宣公)

魯の文公没後、襄仲は側室敬嬴の子宣公を斉侯の許しを得て擁立し、太子悪とその弟視を殺害、反対した恵伯も殺した。宣公は済西の田を斉に贈って地位を確定させ、後に斉から返還される顛末。

年表(3件)

文公二年

  • 襄仲が斉に赴き結納の品を納めた。これは礼にかなうものである。おおよそ君が即位すれば、舅甥にあたる国と婚姻を修め、正妃を迎えて祭祀の供え物を奉じるのが孝であり、孝は礼の始まりである。

文公四年

  • 斉から妻・姜氏を迎える際、卿がその任にあたらなかったのは礼にかなわなかった。君子はこれにより、迎えられた妻(のちの出姜)が魯で安んじられないことを見通した。貴い結納をしながら卑しい礼で迎え、君でありながら軽んじ、立てておきながら後に廃するのでは、信を捨て祭祀の主を損なうことになり、国は必ず乱れ、家は必ず滅びる。受け入れられないのも当然であった。『詩』に「天の威を畏れてこそ安泰が保たれる」とあるのは、祭祀の主を敬うことを言うものである。

文公十八年

  • 冬、襄仲は悪(太子)とその弟・視を殺して宣公を立てた。夫人姜氏(出姜)は斉へ送り返されることになり、出発の際、市を通りながら「天よ、仲は不義にも嫡子を殺して庶子を立てた」と泣き叫んだ。市の人々もみな共に泣き、魯人は彼女を「哀姜」と呼んだ。