春秋左傳事類始末晋、秦の軍を殽で敗る(晉敗秦師于殽)

城濮の戦い後、鄭討伐に赴いた秦・晋両軍を燭之武の弁舌で鄭が退けたことに端を発し、秦が単独で鄭を襲おうとして殽で晋に大敗、捕虜の三将が赦されて帰国し、後に秦が晋への報復と雪辱を果たすまでの6年間。

年表(7件)

僖公二十八年(前632年)

  • 城濮の役の後、三月、鄭伯は楚へ援軍のことで赴いたが、楚軍が敗れたため恐れ、子人九を晋に遣わして講和を求めた。五月、晋侯と鄭伯は衡雍で盟った。

僖公二十九年(前631年)

  • 夏、魯公は王子虎・晋の狐偃・宋の公孫固・斉の国帰父・陳の轅濤塗・秦の小子憖と翟泉で会し、鄭討伐を謀った。

僖公三十年(前630年)

  • 九月甲午、晋侯と秦伯は、鄭が晋に無礼であったとしてこれを包囲した。晋軍は函陵に、秦軍は氾南に陣取った。
  • 佚之狐は鄭伯に「燭之武を秦君に会わせれば秦軍は必ず退く」と進言した。燭之武は老いを理由に固辞したが、鄭伯が「今用いなければ国が滅ぶ」と説くと承知した。
  • 燭之武は夜、城壁から縄で下りて秦伯に会い、「鄭を滅ぼして晋の領土を増やすのは秦にとって不利。鄭を存続させ東方往来の宿とすれば、秦の使者にも便宜がある。かつて晋君(恵公)は秦の恩に背いた前例があり、晋は際限なく領土を広げようとする国で、鄭を得た後は必ず秦の西方をも狙う」と説いた。秦伯は喜んで鄭と盟い、把子・逢孫・楊孫に鄭を守らせて退いた。
  • 子犯は秦軍を撃つよう求めたが、晋侯は「秦の助けなくして今日はない。恩人を害するのは不仁、味方を失うのは不知、和を乱に代えるのは不武」として応じず、晋軍も退いた。
  • かつて鄭の公子蘭は晋に亡命していたが、鄭の石甲父・侯宣多はこれを太子に迎えて晋との和を求め、晋はこれを許した。

僖公三十二年(前628年)

  • 冬、晋文公が没した。曲沃に殯(もがり)しようと絳を出た柩から牛のような音が聞こえ、卜偃は大夫たちに拝礼させ、「君命による大事があり、西方の軍が我が国を通過する。これを撃てば必ず大勝する」と告げた。
  • 把子は鄭から秦に使者を送り、「鄭の北門の鍵を私が預かっているので、密かに軍を進めれば鄭を得られる」と告げた。
  • 秦の穆公は蹇叔に諮った。蹇叔は「軍を疲れさせて遠国を襲うのは聞いたことがない。軍は疲れ力尽き、遠方の主は備えを固める。行軍の意図は鄭にも必ず知られ、千里の遠征を誰もが知るところとなる」と諫めたが、穆公は聞かず、孟明・西乞・白乙に東門の外で出兵させた。
  • 蹇叔は出征の軍を見送って哭き、「私は軍の出るのを見ても、帰るのは見られまい」と述べた。穆公は「お前が何を知るか、お前が中年で死んでいれば墓の木はもう両手で抱えるほどに育っていよう」と叱ったが、蹇叔は子を見送りながら「晋人は必ず殽で我が軍を迎え撃つ。殽には二つの丘陵があり、南の丘陵は夏后皐の墓、北の丘陵は文王が風雨を避けた地である。必ずそこで命を落とすだろう、私はそこでお前の骨を拾おう」と哭いた。秦軍は東へ向かった。

僖公三十三年(前627年)

  • 春、秦軍が周の北門を通過する際、兵は左右とも冑を脱いで礼を示さず、戦車から飛び乗る者が三百乗もあった。王孫満はまだ幼かったがこれを見て、王に「秦軍は軽薄で無礼だ。軽薄なら考えが浅く、無礼なら統率を欠く。険地に入って統率を欠けば、策も立てられず必ず敗れる」と述べた。
  • 滑に至ったとき、周に商いに向かっていた鄭の商人・弦高がこれに出会い、革四枚を先に献じ牛十二頭で秦軍をねぎらい、同時に急使を鄭に走らせた。鄭の穆公が客館を調べさせると、秦の使者たちは既に荷造りをし武器を整え馬に飼葉を与えていた。皇武子は彼らに「長く逗留され食糧も尽きたであろう。ちょうど鄭には秦の狩場に匹敵する原圃があるので、そこで麋鹿を狩って引き揚げられてはどうか」と暗に退去を促した。
  • 把子は斉へ、逢孫・楊孫は宋へ逃れた。孟明は「鄭には備えがある、もはや望みはない」として、滑を滅ぼして引き返した。
  • 晋の原軫は「秦は蹇叔の諫めに背き民を貪欲のために疲れさせた。これは天が我に与えた好機であり、逃せば禍が生じる。天に背くのは不祥、必ず秦軍を討つべきだ」と述べた。欒枝は「秦の恩にまだ報いていないのに討てば、亡き君(文公)に背くのではないか」と懸念したが、先軫は「秦は我が喪を哀しまず同姓の鄭を討った、秦にこそ礼がない。敵を見逃せば後の世に禍根を残す」として出兵を決めた。
  • 姜戎を急ぎ動員し、喪服のまま出陣した晋襄公は殽で秦軍を破り、百里孟明視・西乞術・白乙丙の三将を捕らえて帰った。晋はこの戦い以来、喪中に軍事を行う「墨衰(喪服のまま出陣する慣わし)」を始めたとされる。
  • 文公の妻・文嬴は三将の助命を願い、公はこれを許した。先軫はこれを聞いて怒り、「兵士が命を懸けて捕らえた敵を、婦人の一言で赦すのは、軍の戦果を捨て敵に利するもの。国の滅亡も遠くない」と公の前で唾を吐いて怒りを示した。公は陽処父に追わせたが、追いついたときには三将は既に舟の中におり、陽処父は君命と称して左驂の馬を贈る形で引き止めようとした。孟明は稽首して「君の恩により我らは死を免れたが、秦君が我らを戮せば死しても悔いはなく、もし三年の後に赦されれば改めて君の恩に報いよう」と述べて秦へ帰った。
  • 秦伯は喪服姿で郊外に出て軍を出迎え、「私が蹇叔の言に背いたために諸君を辱めた。これは私の罪であり、孟明を退けないのも私の過ちである。大夫たちに罪はない。一つの過ちで大きな徳を覆い隠しはしない」と自らを責めた。

文公二年

  • 秦の孟明視が軍を率いて晋を攻め、殽の戦いの報復とした。二月、晋侯はこれを迎え撃ち、先且居が中軍将、趙衰が佐、王官無地が御者、狐鞫居が車右となった。甲子、秦軍と彭衙で戦い、秦軍は敗れた。晋人はこれを「秦が礼を返しに来た戦」と呼んだ。
  • 殽の戦いで御者を務めた梁弘・萊駒のうち、戦いの翌日、晋襄公が秦の捕虜を縛り萊駒に斬らせようとしたところ、捕虜が叫んで萊駒は戈を落とした。狼瞫がその戈を取って捕虜を斬り捕らえ、公の車に従った。これにより狼瞫は車右に取り立てられたが、箕の戦いで先軫はこれを退け、続簡伯を立てた。
  • 狼瞫が怒ると、友人は共に難を起こそうと誘ったが、狼瞫は「古の教えに、勇とは上を害してまで用いられることを求めるものではなく、正しくない死は勇ではない。恭しく用いられることこそ勇である。勇を頼みに車右を求め、勇なくして退けられたのもまた当然のこと。上が私を知らないというなら、退けられたことこそ私をよく知っている証だ」と答え、友を待たせた。
  • 彭衙の戦いで、狼瞫は自らの手勢を率いて秦軍に突入し戦死した。晋軍はこれに続いて秦軍を大破した。君子は狼瞫を評し、『詩』の「君子が怒れば乱はやがて止む」「王が激しく怒り軍を整えた」との句を引き、怒りを乱には用いず軍に従ったことを君子と呼ぶにふさわしいとした。
  • 秦伯はなお孟明を用い、孟明は国政を整え民に恩恵を厚くした。趙成子(趙衰)は大夫たちに「秦軍がまた来れば必ず避けねばならぬ、彼らは徳を積み恐れをもって当たってくるので敵し難い」と述べ、『詩』の「汝の祖先を思い、その徳を修めよ」との句を引いて、孟明が徳を修めることを怠らない限り敵し難いとした。

文公三年

  • 夏、秦伯は晋を攻め、黄河を渡って舟を焼き、王官と郊を取った。晋人は出て戦わず、秦軍は茅津から渡り、殽の戦死者を弔って帰った。これにより秦は西戎の覇者となった。孟明を用いた成果である。
  • 君子はこれをもって、秦穆公が人を挙げるに公平で信頼を貫いたこと、孟明が臣として怠らず恐れを知り自省したこと、子桑(公孫枝)が孟明を推挙した忠と人を見る目があったことを称え、『詩』の「白蒿を沼や渚に摘み、公侯の祭祀に用いる」との句は穆公の徳に、「朝な夕な怠らず一人の主に仕える」との句は孟明に、「子孫のために謀りを残し子を安んじる」との句は子桑に、それぞれ当てはまるとした。