春秋左傳事類始末晋文公、城濮の戦い(晉文城濮之戰)
斉の魯侵攻から始まり、宋を包囲する楚に対して晋文公が曹・衛を攻めて楚を誘い出し、城濮の戦いで大破するまでの3年間。先軫・子犯らの献策、三舎退避の故事、戦後の践土の会での晋文公の覇者就任と論功行賞までを描く。
年表(3件)
- 僖公二十六年(前634年)斉が魯を攻め、魯は楚に援軍を求め斉の穀を攻める
- 僖公二十七年(前633年)楚が宋を包囲し、晋は曹・衛攻撃を献策され三軍を編成する
- 僖公二十八年(前632年)城濮の戦いで晋が楚を大破し、晋文公が践土の会で覇者となる
僖公二十六年(前634年)
- 夏、斉の孝公が魯の北の辺境を攻めた。魯は展喜に軍をねぎらわせ、展禽(柳下恵)の教えを受けさせた。展喜は「小人は恐れているが、君子はそうではない。周公・太公が成王より賜った『世々子孫、互いに害さぬ』との盟約や、桓公が諸侯を糾合し不和を取りなしてきた旧業を頼みにしている」と説き、斉侯は兵を退いた。
- 魯は東門襄仲・臧文仲を楚へ遣わし援軍を乞うた。臧孫は楚の子玉に、斉・宋が周に対し臣礼を欠いていることを理由に討伐を勧めた。
- 冬、魯は楚軍とともに斉を攻めて穀を取り、斉桓公の子・雍を穀に置いて易牙に補佐させ、魯の後ろ盾とした。楚の申公叔侯が穀を守った。宋は晋との誼を重んじて楚に背き、晋についた。
僖公二十七年(前633年)
- 楚子(成王)が諸侯を率いて宋を包囲した。宋の公孫固が晋に急を告げた。
- 先軫は「恩に報い難を救うことで威信を得て覇を定められる好機」と説き、狐偃は「楚が曹と結び衛と新たに婚姻したので、曹・衛を攻めれば楚は必ず救援に向かい、斉・宋は囲みを免れる」と献策した。
- 晋は被廬に軍を集めて三軍を編成し、元帥を選んだ。趙衰は「郤縠は礼楽詩書に通じ、徳義を体現する人物」として推挙し、郤縠が中軍将、郤溱が佐となった。狐偃は上軍将を狐毛に譲って佐となり、趙衰は卿の位を欒枝に譲った。欒枝が下軍将、先軫が佐となり、荀林父が御者、魏犫が車右を務めた。
- 晋侯は帰国後二年、民を用いようとしたが、子犯は「民はまだ義を知らず落ち着いていない」として、まず襄王を都に戻す事業で民を安んじ、次に原を攻めて信を示し、さらに大蒐(大規模な閲兵・狩猟)で礼を示し官制(執秩)を整えてから、初めて民を戦に用いた。この一戦で覇を成したのは、この教化の賜物であった。
僖公二十八年(前632年)
- 二月、晋の郤縠が没し、原軫(先軫)が中軍将となり、胥臣が下軍佐となった(徳のある者を上に立てたもの)。
- 晋侯は衛を攻め、衛侯は襄牛に出た。三月、曹に入り、僖負羈の家には立ち入らせずその一族を免じ、亡命中の恩に報いた。魏犫・顚頡はこれに不満を持ち、僖負羈の家を焼いた。魏犫は胸を負傷したが、公はその才を惜しみ、使者に様子を見させたところ、魏犫は自ら胸を縛って跳躍して見せ、なお使えると示したため許された。顚頡は軍中で処刑して見せしめとし、舟之僑が新たに車右となった。
- 宋は門尹般を晋に遣わし急を告げた。先軫は「宋に斉・秦へ賄賂を送らせて仲介を頼ませ、我が方は曹君を捕らえ曹・衛の地を宋に分け与える。楚は曹・衛を惜しんで応じまい。楚が斉秦の申し出を拒めば、両国は楚を怒り晋に与するだろう」と献策し、公はこれに従い曹伯を捕らえ、曹・衛の地を宋に分け与えた。
- 楚子は申に入り、申叔に穀を、子玉に宋を離れさせようとし、「晋侯は十九年の艱難を経て民情を知り尽くしている。天が晋に与えた機は廃せない」と説いたが、子玉は伯棼を通じて戦いを請い、王は渋々わずかな兵を与えた。
- 子玉は宛春を晋軍に遣わし「衛侯を復位させ曹を封じ返せば、宋の包囲を解く」と申し入れた。子犯は「子玉は無礼だ」としたが、先軫は「一言で三国を安んじる楚の申し出を拒めば我が方が無礼になる」として、密かに曹・衛の復位を許しつつ宛春を抑留して楚を怒らせ、戦いは開戦後に決すべきと説いた。公はこれに従い、曹・衛は楚と断交した。
- 子玉は怒って晋軍に迫った。晋軍は退いた。軍吏が退却を訝ると、子犯・先軫は「かつて楚の恩に報いるため三舎を退くと約したこと、今楚が理を欠き晋に理があること」を説明した。楚の兵は追撃を望んだが、子玉はこれを許した。
- 夏、晋侯・宋公・斉の国帰父・崔夭・秦の小子憖が城濮に陣を敷いた。楚軍は酅(険阻の地)を背にして陣を構えた。晋侯は民の歌う謡(旧きを捨て新しきを謀るとの意)を聞いて憂えたが、子犯は「勝てば諸侯を得、負けても山河に守られ害はない」と励ました。
- 公が楚の旧恩をどうするかと問うと、欒貞子は「漢水以北の姫姓諸国を楚は併呑し尽くした。小恵を思って大恥を忘れるべきではない」と戦いを勧めた。晋侯は楚子と組み合い脳を吸われる夢を見て恐れたが、子犯は「我は天を得、楚は罪に伏す兆し」と吉夢と解いた。
- 子玉は闘勃を遣わして戦いを請い、晋侯は欒枝に「楚君の恩を忘れぬゆえ退いてきたが、大夫が来られるなら明朝お相手する」と答えさせた。晋の兵車は七百乗、装具を整え、晋侯は有莘の丘に登って軍を望み、「老若ともに礼儀正しい、用いるに足る」と述べ、木を伐って武具を補った。
- 胥臣が下軍の佐として陳・蔡の軍に当たり、子玉は若敖の六卒を率いて中軍、子西が左軍、子上が右軍を率いた。胥臣は馬に虎皮を被せて陳・蔡軍を突き崩し、楚の右軍は潰えた。狐毛は二旒の旗を立てて退くふりを見せ、欒枝は輿に柴を曳かせて偽って敗走し、楚軍がこれを追うと原軫・郤溱の中軍が公族を率いて横撃し、狐毛・狐偃の上軍が子西を挟撃して楚の左軍も潰えた。子玉は残兵をまとめて踏みとどまり、大敗は免れた。
- 晋軍は三日間楚の陣営で糧食を得て過ごし、践土に王のための宮室を築いた。五月丁未、楚の捕虜を周王に献じた(甲冑をつけた馬四頭立ての戦車百乗、歩兵千人)。鄭伯が王を補佐した礼は、平時の礼にのっとったものである。己酉、王は醴酒でもてなし晋侯に酒を勧め、尹氏・王子虎・内史叔興父が晋侯を侯伯(諸侯の長)に任命する策命を下し、大輅・戎輅の車、彤弓一張・彤矢百本、玈弓・玈矢千本、秬鬯一卣、虎賁三百人を賜った。晋侯は三度辞退した後に拝命し、「重耳、謹んで天子の御命を拝受す」と述べ、その後三度朝見した。
- 癸亥、王子虎が諸侯と王庭で盟い、「みな王室を助け互いに害さぬ。この盟に背く者は神が誅する」と誓った。君子はこの盟を信あるものと評し、晋はこの一連の戦役を徳をもって行ったとした。
- 楚の子玉は敗れて連穀に至り自害した。晋侯はこれを聞いて安堵し「もう我を苦しめる者はいない」と喜んだ。
- 城濮の戦いで、晋の中軍の大旆の左の旃(小旗)が風に飛ばされ、祁瞞が軍令に背いたため、司馬はこれを処刑して諸侯に見せしめとした。軍が河を渡って帰る際、舟之僑は先に帰国し、士会がその職を代行した。秋七月、軍は凱旋して晋に入り、捕虜と首級を献じて祖廟に報告し、大いに恩賞を行うとともに、二心を抱いた者を討ち、舟之僑を処刑して国中に示した。これにより民は大いに服した。君子は「晋文公は刑罰を正しく用いた。三度の処罰で民が服したのは、賞罰を誤らなかったからだ」と評した。