春秋左傳事類始末秦伯、晋侯(文公)を国に入れる(秦伯納晉侯)
晋の公子重耳が驪姫の乱を逃れて狄・衛・斉・曹・宋・鄭・楚・秦と諸国を19年間流浪し、秦穆公の助けで晋に帰国して文公として即位するまで。従者の狐偃・趙衰らの助言と各国の応対、帰国後の論功行賞と介之推の逸話までを描く。
年表(2件)
- 僖公五年~二十三年(前655年~前637年、重耳の亡命遍歴)重耳が驪姫の乱で狄へ亡命し諸国を巡って秦に至る
- 僖公二十四年(前636年)秦の助けで重耳が晋に帰国し文公として即位、論功行賞を行う
僖公五年~二十三年(前655年~前637年、重耳の亡命遍歴)
- 晋の公子重耳は驪姫の乱にあたり、蒲城で晋軍の攻撃を受けたが、父の命に背いて戦うことをよしとせず、狄へ亡命した。従者は狐偃・趙衰・顚頡・魏武子・司空季子。
- 狄は廧咎如を討ち、その娘叔隗・季隗を重耳に差し出した。重耳は季隗を娶り、叔隗は趙衰に嫁いで盾を生んだ。
- 重耳は斉へ向かう途中、衛では礼遇されず、五鹿で農夫から土塊を差し出されて怒ったが、子犯(狐偃)に「天の賜物」と諭されて受け取った。
- 斉では桓公が厚遇し、馬二十乗と妻を与えた。重耳が安住しかけたところ、従者たちは桑の下で立ち去りを相談し、これを聞いた姜氏は口封じに立ち聞きした蚕妾を殺し、重耳を酔わせて出発させた。
- 曹では共公が重耳の駢脅(あばら骨が一続きの体)を見たがり無礼を働いたが、僖負羈は妻の勧めで密かに厚意を示した。
- 宋では襄公が馬二十乗を贈った。鄭では文公が礼を尽くさず、叔詹が「天の啓く者ゆえ礼を尽くすべき」と諫めても聞かなかった。
- 楚では成王が厚遇した。重耳は「もし晋に帰れたなら、晋楚が戦う際は三舎(九十里)退く」と約束した。子玉は重耳を殺すよう勧めたが、成王は「天が興そうとする者を廃することはできない」と聞かず、秦へ送った。
- 秦では穆公が娘五人を重耳に嫁がせ、懐嬴もその一人となった。懐嬴が水をかけられたことに怒ったため、重耳は身をやつして詫びた。宴席で子犯は趙衰に賦詩を任せ、重耳は秦の厚意に応えた。
僖公二十四年(前636年)
- 秦伯は重耳を晋へ送り返した。黄河を渡る際、子犯は自らの罪を詫びて璧を返そうとしたが、重耳は「舅氏と心を一つにせぬなら白水に誓う」と述べ、璧を河に投じた。
- 狐偃は秦晋の大夫と郇で盟い、重耳は曲沃に入った。呂甥・郤芮は己の立場を危ぶみ、宮殿を焼いて重耳を弑そうと謀った。
- 寺人披(勃鞮)が面会を求め、かつて重耳を討った経緯を釈明した。重耳がかつての遺恨を持ち出すと、披は「君命に二心はなく、除くべき者を討つのが臣の務め」と述べた。重耳は面会し、乱の企てを知った。
- 重耳は密かに秦伯と王城で会う。宮殿が焼かれたが、重耳は難を逃れて河上に出た。秦伯は呂甥・郤芮を誘い出して殺した。
- 重耳(晋文公)は夫人嬴氏を迎えて帰国した。秦伯は衛兵三千人を送り、綱紀を担う従者とした。
- かつて重耳の財を守っていた豎頭須は、亡命中に財を持ち去って各地で重耳の帰国運動に用いたが、帰国後に面会を求めた。重耳が沐浴を理由に断ろうとすると、頭須は「留守を守る者も従者も同じ務め」と論じ、重耳は面会した。
- 狄は季隗を晋に帰したが、二子は留め置くよう求めた。文公の妻趙姫は、趙衰と叔隗の子・盾を正妻の子として迎えるよう勧め、自らは進んで次位に下った。
- 文公は亡命に従った者たちに恩賞を与えたが、介之推は禄を求めず、「天が晋を興そうとしたのに従者たちがそれを己の功と誇るのは、人の財を盗むより悪い」として母と共に山に隠れ、そのまま死んだ。文公は探しても見つからず、緜上の地を彼のための田として己の過ちを記し、善人を顕彰した。