春秋左傳事類始末楚の子玉、城濮で敗れる(楚子玉敗師城濮)

楚の子玉が令尹となり宋を包囲するが、蒍賈の危惧どおり城濮の戦いで晋に大敗し、子玉は自害するまでの経緯。僖公二十三年から二十八年(前637〜前632年)。

年表(3件)

僖公二十三年(前637年)

  • 楚の成得臣(子玉)が軍を率いて陳を伐ち、焦・夷を取り、頓に城を築いて帰還した。子文はこの功績により子玉を令尹に推挙した。叔伯が「あなたはこの国をどうするつもりか」と問うと、子文は「国を安んじるためだ」と答えた。しかし叔伯は「大功があっても高位に安住しない者こそ、国を安んじられる者はどれほどいるだろうか」と暗に危惧を示した。

僖公二十七年(前633年)

  • 楚子が宋を包囲しようとし、子文に睽で軍の訓練をさせたところ、朝のうちに終わり一人も処罰しなかった。一方、子玉が蒍で訓練したときは一日がかりで、七人を鞭打ち三人の耳を貫いた。国の長老たちは子文の手腕を祝ったが、まだ若い蒍賈だけは遅れて来て祝わなかった。理由を問われると「何を祝うのか分からない。あなたが政務を子玉に譲ったのは国を安んじるためというが、内を安んじても外で敗れれば得るものは少ない。子玉が敗れれば、それはあなたの人選の誤りということになる、それで国が敗れるのに何を祝うのか。子玉は剛直だが礼に欠け、民を統率させれば三百乗を超える軍は率いきれまい。もし入城して無事に戻れたなら、その時こそ祝っても遅くはない」と答えた。冬、楚子は諸侯とともに宋を包囲した。

僖公二十八年(前632年)

  • 春、晋侯が曹を侵し衞を伐った。楚子は子玉に、晋軍を追わず宋の包囲を解くよう命じたが、子玉は伯棼を遣わして「必ず功を立てるためではなく、蒍賈のような讒言を封じるためだけに一戦を望む」と求めた。楚子は怒りつつも渋々少数の兵(西広・東宮・若敖氏の六卒)だけを子玉に与えた。
  • 城濮の戦いで楚軍は大敗した。開戦前、子玉は美しい玉飾りの冠と胸飾りを新調しながらまだ身に着けていなかった。夢に河の神が現れ「それを私にくれれば、孟諸の沢地を与えよう」と告げたが、子玉はこれに応じなかった。大心と子西は栄黄を通じて諫めたが聞かれなかった。栄季は「国のためになるなら死んでもすべきこと、まして宝玉ごときは土くれ同然、それを惜しんで軍を救えるならなぜ出し惜しむのか」と評した。子玉が聞かなかったことを知った栄季は「令尹を敗るのは神ではない、令尹自身が民を大事にせず自ら敗れを招くのだ」と二人に告げた。
  • 敗戦後、楚王は子玉に使者を送り「大夫がもし帰国すれば、申・息の父老たちにどう申し開きするのか」と伝えた。子西・孫伯は「得臣(子玉)は死ぬ覚悟だ」として二人でこれを止めようとしたが、子玉は連穀まで至って自害した。その後、蒍呂臣が令尹となったが、自らの保身にのみ意を用い、民のことは顧みなかった。