春秋左傳事類始末魯、須句を封じ直す(魯封須句)

邾に滅ぼされた須句の君が魯に亡命し、成風の勧めで魯が邾を伐って須句を復位させるが、その後の邾との升陘の戦いで魯が大敗するまでの経緯。僖公二十一・二十二年(前639〜前638年)。

年表(2件)

僖公二十一年(前639年)

  • 任・宿・須句・顓臾はいずれも太皥(伏羲)の子孫で風姓の国であり、太皥と済水の神を祀ることで中原諸国に仕えてきた。邾人が須句を滅ぼし、須句の君は魯に亡命した。これは須句の君が魯の成風(僖公の母)の出であった縁による。成風は僖公に「明祀を尊び小国を守るのが周の礼、蛮夷が中原を侵すのは周にとっての禍。須句を再興させれば太皥と済水の神の祭祀を絶やさぬことになり、禍を払うことにもなる」と説いた。

僖公二十二年(前638年)

  • 春、魯は邾を伐って須句を取り戻し、その君を復位させた。これは礼にかなう行いであった。
  • 秋、邾人は須句をめぐる恨みから軍を出した。僖公は邾を侮って備えを怠り迎撃しようとした。臧文仲は「国はどんなに小さくとも侮ってはならない、備えがなければ多勢でも頼りにならない。詩にも『戦々兢々として深淵に臨むが如く薄氷を踏むが如く』とあり、また『これを敬みこれを敬め、天の道は明らかで、天命は易々とは保てぬ』ともある。先王の輝かしい徳をもってしてもなお難しく畏れ多いとされたのに、まして我が小国においてをや。君は邾を小国と侮ってはならない、蜂やさそりにさえ毒があるのだから、国においてはなおさらだ」と諫めたが聞かれなかった。邾との升陘の戦いで魯軍は大敗し、僖公の兜まで奪われ魚門に晒された。