春秋左傳事類始末衛文公、邢を滅ぼす(衞文滅邢)

邢・狄に攻められた衞の文公が退けた後、旱魃を機に邢討伐を決意し、礼至兄弟が邢に仕官して内応した末、邢を滅ぼすまでの経緯。僖公十八年から二十五年(前642〜前635年)。

年表(4件)

僖公十八年(前642年)

  • 邢人と狄人が衞を伐ち莬圃を包囲した。衞侯(文公)は国を父兄や子弟、朝臣に譲ろうとし、「治められる者があれば私は従う」と申し出たが、皆これを固辞したため、改めて訾婁に軍を出すと狄軍は退いた。

僖公十九年(前641年)

  • 秋、衞人は莬圃の恨みを晴らすべく邢を伐った。折しも衞は大旱に見舞われ、山川に祈っても兆しが出なかった。寗荘子は「昔、周は飢饉のさなかに殷に勝ち豊作を得た。今、邢は無道で諸侯にも盟主がいない、天は衞に邢討伐を促しているのではないか」と進言し、これに従い出兵すると雨が降った。

僖公二十四年(前636年)

  • 衞人が邢を伐とうとした際、礼至は「邢の守りが崩れねば攻略はできない」と考え、兄弟で邢に仕官することを願い出て、実際に仕官した。

僖公二十五年(前635年)

  • 衞人が邢を伐ち、礼至兄弟は邢の国子(重臣)に従って城を巡回する中、脇から突いて城外に連れ出し殺害した。正月、邢は滅びた。礼至は自らの功を刻んだ銘に「私が脇から国子を突き殺した、誰も私を止められなかった」と記した。