春秋左傳事類始末宋襄公、盟主の座を争う(宋襄爭盟)

宋の襄公が斉桓公没後の覇を狙い、鹿上の盟で楚に盟主の座を求めて許されるが、盂の会で楚に捕らえられ、さらに泓水の戦いで「仁義の師」にこだわり大敗、その傷がもとで没するまでの経緯。僖公十六年から二十三年(前644〜前637年)。

年表(6件)

僖公十六年(前644年)

  • 春、宋に隕石が五つ落ちた。これは星の隕落によるもの。同じころ鷁(水鳥)六羽が宋の都上空を後ろ向きに飛び去った。これは風のいたずらである。周の内史叔興が宋を訪れた際、襄公が「これは何の予兆か、吉凶はどちらか」と尋ねた。叔興は表向き「今年魯に大きな喪が続き、来年斉に内乱が起こり、あなたは諸侯を得るが最後は成就しない」と答えたが、退出後に「あの問いの立て方自体が誤りだ、これは陰陽の自然現象であって吉凶の生じるものではない。吉凶は人の行いから生まれる。ただ君の求めに応じて答えたまでだ」と本音を漏らした。

僖公十九年(前641年)

  • 宋人が滕の宣公を捕らえた。夏、曹南で盟が結ばれ、宋は邾の文公に命じて鄫子を睢水のほとりの社で生贄にし、東夷を服属させようとした。司馬子魚は「昔から家畜同士でさえ用途を違えて用いない、小さな祭りに大きな犠牲は使わない、まして人を犠牲にするなど許されない。祭祀は人のためのものであり、民こそ神の主である。人を犠牲にして誰が喜んで受けようか。斉の桓公は三つの滅びかけた国を存続させてなお徳が薄いと評されたのに、あなたは一度の会盟で二国の君主を虐げ、さらに人身御供までして覇を求めようとしている。これでは天寿を全うできれば幸いというものだ」と諫めた。宋は服従しない曹を包囲した。子魚は「文王は崇国の徳の乱れを聞いてこれを伐ったが、三十日包囲しても降らねば一旦引いて徳を修め、再び攻めて降した。詩にも『まず自分の妻子に模範を示し、それを兄弟に及ぼし、家や国を治める』とある。今の君の徳にはまだ欠けるところがあるのではないか、人を伐つ前にまず自らの徳を省みるべきだ」と説いた。

僖公二十年(前640年)

  • 宋の襄公が諸侯を糾合しようとしたが、臧文仲はこれを聞いて「欲から人を従わせようとしても、うまくいくことは少ない」と評した。

僖公二十一年(前639年)

  • 春、宋人は鹿上での盟を結び、楚に諸侯の盟主となることを求め、楚はこれを許した。公子目夷は「小国が盟主の座を争うのは禍のもと、宋は滅びるかもしれない、敗れずに済めば幸いだ」と危惧した。秋、諸侯が盂で宋公と会した際、楚は宋公を捕らえて宋を伐ち、冬に薄での会でようやく解放した。子魚は「まだ禍はこれで終わらない、これしきでは君は懲りないだろう」と述べた。

僖公二十二年(前638年)

  • 三月、鄭伯が楚へ赴いた。宋公が鄭を伐とうとすると、子魚は「まさにここに禍がある」と言った。楚は鄭を救うため宋を伐った。宋公が戦おうとすると、大司馬固は「天はとうに商(宋の祖)を見放している、今さら興そうとしても無理だ、赦されぬ」と強く諫めたが聞かれなかった。
  • 泓水の戦いで、宋軍は既に陣を整えていたが楚軍はまだ渡河し終えていなかった。司馬(子魚)は「敵は多勢、我は少勢、渡河が終わらぬうちに攻めるべきだ」と進言したが、宋公は「不可」とし、渡河後陣形が整う前にも「まだだ」と攻撃を許さず、陣を整え終えてからようやく攻撃を許した。結果、宋軍は大敗し、宋公自身も股を負傷、近衛の官はほぼ全滅した。国人はみな宋公を責めたが、宋公は「君子は傷ついた者を再び傷つけず、白髪の者を捕虜にしない、古の戦のやり方は険阻の地を利用しない、私は滅びた殷の末裔だが、陣を整えぬ敵を打つことはしない」と弁明した。子魚は「君はまだ戦を知らない、強敵が険阻な地で陣を整えられぬのはこちらへの天の助け、そこを攻めるのは当然のこと。それでもなお危ういのに、今の強敵はみな我らの敵、たとえ老人でも捕らえて何が悪いのか。恥を教え戦を教えるのは敵を殺すためだ。傷を重ねることを厭うなら初めから傷つけねばよいし、老兵をいたわるなら降伏すればよい。軍は利によって動き、鉦や太鼓は士気を鼓舞するもの、有利であれば険阻を利用し、士気が高ければ乱れた敵でも打って良い」と厳しく批判した。
  • 鄭の文公夫人(芈氏・姜氏)が柯沢で楚子をねぎらった際、楚子は捕虜や戦利品を見せびらかした。君子はこれを「礼にかなわぬ行い、婦人の送迎は門を出ず、兄弟にも敷居を越えて会わず、軍事に女性を近づけないのが礼だ」と評した。楚子は鄭に招かれ盛大な饗応を受け、宴の後、文芈が軍まで見送り、楚子は鄭の二人の姫を連れて帰った。叔詹は「楚王はろくな最期を迎えないだろう、礼を尽くしながら男女の別を欠くのでは礼とは言えない、これでは覇を成し遂げられまい」と評した。

僖公二十三年(前637年)

  • 夏、宋の襄公が没した。泓水の戦いの傷がもとであった。